明日と来週の日曜に、ひとり芝居の本番がある。

普段ならゲネプロ→本番の流れなのだけど、今回は特殊なので中2日ほど空けて本番。

昨日も今日も休みにした。あまり他のことをしない方が良いかなと思って、バイトも、次の現場の稽古も、いつも行ってるヨガのクラスも休んで予定を無しにしたが・・・

日中の過ごし方がワカラナイ・・・

テストの前の日みたいに、いきなり違うことをやり出してしまう。

本番の前にやたら部屋掃除したり。無意識のうちに感じているストレスからの逃避。

いっそ予定を詰めた方が良かったんだろうか。本番中でも働きながらやってる人すごいと思う。

で、心元なくてブログを書き始めた。

 

去年は、漢字一文字で表すと「病」の一年だった。

3月の舞台本番が終わって、その年の予定(お芝居)は何もなかった。数年前からいつかこうなる日が来るという恐れがずっとあって現実になった。

このままではいけないんじゃないかという焦りがあって、婚活をし始めた(何も成就しなかったが芝居のネタにはなった)

めちゃくちゃしんどかった。誰かと出会うには必要な苦痛なのかもしれない、私には堪え性がないのかもしれない、自分を責め続けた。

GWに風邪をひき、夏にコロナにかかり、後遺症で喘息みたいになって何ヶ月も咳が続いた。

周りはおめでたラッシュで、とても素敵なことなのに喜べなくて、なんて自分は寂寥な人間なんだろうとまた自分を責め続け、10月ごろピークを迎えた。眠れなくなった。

そこからの2ヶ月くらいが人生で最大に苦しかった。

 

私を救ってくれたのは、今回のひとり芝居だった。

まずやろうと思ったのは去年の6月くらい。たまたま劇場でチラシを見つけた。たとえ仕事がなくても自分の名刺代わりになるような作品があれば、どこかでやり続けることはできるんじゃないか、これを機会にそんな作品が作れたらと思って応募した。

最初は全て自分でやろうと思っていたが、考えている間に時間は経っていく。お願いするなら私をよく知っている人、心許せる人じゃないとと思って、前々からいつかお芝居を作ってほしいと思っていた方にお願いをすることにした。

ちなみにメンタルぐちゃぐちゃで他力本願で行った占いで婚活向いてないと言われて(それに信憑性があろうとなかろうと)心底ホッとして全てその日のうちにやめた。

 

別のタイミングで、自分の想いを言葉にするというワークショップに参加した。たまたま講師だった方の詩集のタイトルが、自分が求めている感覚をあらわした言葉で「これだ」と思い、タイトルにさせていただいた。

言うなれば「なんとなく」。

でもこのなんとなくが、静かに大きく影響しているのだと、後々創作をしていく中で明らかになった。

 

私は苦しみから逃れたかった。苦しい感情にならないように努力すべきだと思っていた。

けれど、ひとり芝居を作る中で、その苦しみや悲しみや辛さ自体が、他の人に変わることのできない特権、自分特有のものなのだというアイデアをもらった。これが自分にとってものすごい衝撃だった。

苦しい悲しい感覚になったとき、私はいつも自分を責めていたけれど、どんな感情や感覚であろうと、それは私にしか味わえないものなのだから、祝福しようと思えた。

そこでつきものが取れたように、心がスーーーーーーーーっと軽くなった。

眠れるようになった。

それが去年の12月の中頃。

きっとたまたまだったのだけど、そのたまたまが、これからの私を私自身で支えてくれることになるだろう。

どんなことが起ころうと、私は私を祝福できる。

このことに気づかせてくれただけでも、今回創作することにして本当に良かったと思う。

 

そんなこんなで明日は本番。もうすぐお昼。

 

 

 

 

 

 

 

前回の投稿から1年以上。相変わらず。

世の中はTwitterがXになり、何事もない平和な日常が揺らぐ世の中になりつつあり、

それでも毎日飯を食い、たまに眠れない日を過ごし、天気が良いと機嫌が良くなる、というような毎日を過ごしている。

 

去年の11月から、本を媒介としたコミュニティスペースのメンバーになった。とはいえ月に一度お店番をするくらい。何かを企画しても良いし、ただ居るだけでも良い。大人のサークル?大人の保健室?いろいろな捉え方がある。

 

そこでは一人一人の自己紹介の本棚がある。

あるメンバーの棚に、個人の日記を書籍化したものや、日記そのものが置かれている。その棚の持ち主の日記ではない「誰かの日記」。戦前、戦中、戦後、そしてもっと現代。誰の目にも触れずに消えることになる可能性があったのもたち。だけど偶然が重なって、見ず知らずの人間が読むことになったもの。

 

SNSをやることや、ネット上にことばを残すことがとても恥ずかしいことだと思っていた。一度残してしまうと消えることはないだろうから。恥ずかしさの裏にあるのは恐怖だ。こんなことを書いたら、こんなことを見たら、馬鹿にされるかもしれない・・・嫌われるかもしれない・・・

でもブログに書かなくても、紙の手帳は事務的なことやその日感じたことやさまざまな言葉によって埋め尽くされている。

紙ならば消えるという概念は「誰かの日記」を読んだときに書き換えられた。残したものは、どこかで不意に他人に共有されることもある。

「誰かの日記」を読んだとき、私は全然恥ずかしくなかった。その内容は一般的に言えば恥ずかしいものだったかもしれない。でも恥ずかしいことではない。

恥ずかしいことを書くことは、恥ずかしいと思われることではないのだ。読み手がどう受け取るかなんて選べないのだから、怖がる必要はないのだ。

そんなことを考えながら久しぶりに書いている。

 

今日はいつもの稽古会で、「習う」ことの気楽さとおおらかさについて話した。

誰かの真似をしていても、時間が経つと私のものになる瞬間ってある。

そこには時間が関係している。生きている時間そのものが影響し続けている。

 

11月にダンスをする。今はまだ、先生の振り付けを必死になって踊っている。

11月が終わりではないから、そのうち、いつか、私の踊りになる日を気長に待ちながら、ご飯を食べたり、人と話したり、毎日を続けていきたいと思う。

一昨日、ギックリ首になった。

前回の処方を見たら2018年。

いまの家に引っ越してきてからだから、4年弱ぶり。

 

ここ最近ジャズダンスに通っている。

仕事終わりに行くのに都合のいい時間で調べたら、ちょうど良いクラスがあって、楽しくて、始めてから4ヶ月くらい。イメージを使って、自分の踊りを踊ってください。私はどこへ行っても最近これなんだよな。

動きを追うのに精一杯。それよりも大事なことがあるけど、「振り付け」という制約の中で、自分のできることを表現するのが好きなのかもしれない。自分の踊りを踊るってことが、自分でない誰かの基準になるのではないかという恐れがある。そのバランスに悩まされて、難しくて、ワクワクする。

夜の大久保駅前の細い路地には独特のかおりと色がある。楽しそうに飲んでいる人たち、外国人の人たち、怪しいマッサージ店の看板、水タバコ店の匂い。

そんなジャズダンス教室が、その日は急遽、休校だった。

 

交通費が勿体なかったなと思いつつ、仕事帰りの疲れた体は正直少しホッとして、家路に着く。

ご飯を作るのは面倒で、スーパーで安くなっていたビビンバ丼にとろけるチーズを乗っけてレンジでチン。

食べながらアマプラで「君の名前で僕を呼んで」を見る。

数年前、オーディションに落ちた帰り道、新宿で見たんだっけ。その時はとても興奮したのだけど、今回はそれほどでもなかった。本も読んでしまっていたので、期待した描写がなかったからかもしれない。相変わらず美しいとは思った。

 

次の日が休みと思うと夜更かししてしまう。携帯でYouTube見て、お風呂に入って寝た。

そして朝目が覚めて「ヤバイ」と思った。首がずしんと重く痛い。起き上がれない。

何年か前に体験した痛みほどではないが、泣きそうになる。昼前まで寝る。

起き上がるのに苦労しつつ、夜の稽古会はお休みすると連絡。

痛いながらもお腹が空いたのでフレンチトーストを何とか作る。

テレビで「ポンペイ」って映画やってて見る。美女の描写が王道すぎてなんか萎える。

だけど最後までみた。

 

起きてるのが辛くて横になる。久しぶりにポッドキャストでハイパーハードボイルドグルメリポートを聞く。

福島の汚染地域で10年間1人で住んでいる男の人の話。

蜂を飼っていて収入はほぼそれだけ、あとは自給自足。

街から人はいなくなった。帰還許可が出されても帰って来る人はいない。人口のほとんどは除染の職員。

山の中で暮らす男性。風呂はない。冷水のシャワーだけ。

何のために戻ってきたのかという質問の答えは意外にも「動物が居るから」

汚染地域の動物たちは、皆んな殺されてしまう。外には行けない。

誰かが餌をやらなければ見殺しになる。それはできない。その理由。

なんか、優しいな。優しい人なんじゃないかな。

善良な人って、苦労するのだと思う。人の幸せは測れないけれど。

汚染された川の鮎を10年食べ続けている。川で取れた鮎と収穫したピーマンで天ぷらとビール。

暗くなったら寝る。朝早く起きる。動物たちを世話する。

 

パパラッチの回。芸能人、タレント、作家、スポーツ選手、あらゆる有名人のゴシップを狙う。

車の中で何時間も、その瞬間を待つ。聞いてて、むしろそこまでできるのが凄いなと思う。

好きじゃなきゃできない仕事。

俺たちは頭がおかしいんだと思うと語る男性。

小学生の時にNASAのチャレンジャー号が爆発したことが、関係しているのかもと語る。

人は、どこかで、人の不幸を喜んでいる。

だからゴシップも週刊誌もなくならない。

それが自分の親しい人であれば許せない。

なんか、わかると思ってしまう。人の本性だと思ってしまう。そこに安心してしまう自分もいる。

残酷なことができるんだ、人間は。私の中にも絶対にある。

 

夜は納豆チーズトースト。今日はお風呂に入れない。横になる。

Spotifyのおすすめで出てきた古典ラジオというポッドキャストを聞く。

金があったら偉いのか?!資本主義なんたらかんたらっていう回。

資本主義を構成する6つの要素、歴史、ポスト資本主義とは・・・

お金があっても幸せになれない。お金がなさすぎても幸せになれない。納得。

資本が資本を産む。ゆえに格差が生まれる。生産性を上げるためには、増幅していくしかない。

今のバイトもまさにそうよな。

資本主義が発展したおかげて、私たちの生活は豊かになった。確実に。

だけど、幸せにはなれない。途方もない。

 

次の日。朝起きると冷たいあめ。

首はまだ痛い。起き上がるの辛い。

バイトは休んだ。2年以上働いて初めて病欠した。電話したらあっさり「分かりました〜」

そんなもんよね。

 

だらだら寝て、また納豆チーズトースト食べて、テレビはつまらなくて、古典ラジオを聞く。

吉田松陰の回、スパルタの歴史。

歴史って面白い。私たちの常識をぶち破ってくれる。芸術もそう。

己の知っている世界など、ほんのわずかな歴史の一部でしかない。

性の歴史も面白かった。全部で何時間あったんだろうか・・・

何が当たり前なのか、何が犯罪行為なのか、何に欲情するのか、それは、私たちの本能ではない。

欲望でさえもOSなのかもしれない。現代社会のシステムの中で、起こるもの。

裸で欲情しない時代だってあったし、ギリシャ人は皆んなバイだった。

これから先、マスクを外した口元に欲情する時代が来るかもしれない。

 

通信機器の歴史も面白い。

このブログは最たるもの。

文脈を持たない匿名の個人が、好きに世界に発言できる。そして時にそれが何の脈絡もなく注目を受けたりもする。

時代の中で私たちの欲望は変化する。適応していくのが進化。

そう思ったら、何でも好きなことをすれば良いという気になる。

 

アテネでは「暇である」とが尊ばれたそうだ。

私も首を捻挫して暇だったからこんなこと書いている。

怪我の功名。