第9356回「朝松健編 神秘界 その6、邪宗門伝来秘史(序) 田中啓文著 ストーリー、ネタバレ」 | 新稀少堂日記

第9356回「朝松健編 神秘界 その6、邪宗門伝来秘史(序) 田中啓文著 ストーリー、ネタバレ」

 第9356回は、「朝松健編 神秘界 その6、邪宗門伝来秘史(序) 田中啓文著 ストーリー、ネタバレ」です。「序」と付けられていますが、長編化はされていないようです。60ページほどの読み応えのある伝奇小説に仕上がっています。


 主人公はフランシスコ・ザビエルです。少し長くなりますが、ウィキペディアからザビエルの日本渡航を中心に抜粋することにします。御面倒でしたら読み飛ばしてください。


 『 1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。


 一行は明の上川島(広東省)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、・・・・  しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。


 1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。・・・・ ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝の拝謁を請願。


 しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。・・・・ (山口の大内)義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。


 ・・・・ 日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。(1551年)11月15日、日本人青年4人を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナ ンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。・・・・


 1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。


 しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神心的にも消耗しており、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。 』


 物語はほぼこのとおりの史実に基づいて書かれていますが、そこは伝奇小説です。虚実取り混ぜて、クトゥルフ神話が盛り込まれています。当然、ザビエルの事績を知った上で本書を読みますと、より楽しめることに間違いはありません。


 なお、ストーリーの紹介にあたりましては、便宜上、サブタイトルをつけさせていただきます。



「その6、邪宗門伝来秘史(序)」田中啓文著

『プロローグ 宣教師書簡より デウスをダニチ(大日如来)と説く』

 フランシスコ・ザビエルは、布教にあたり仏教での創造神であるダニチ(大日如来)を便法的に使ったことを、書簡からの引用で、巻頭で短く紹介しています。


 ちなみに、『 フランシスコ・ザビエルは来日前、日本人のヤジロウとの問答を通してキリスト教の「Deus」を日本語に訳す場合、大日如来に由来する「大日」(だいにち)を用いるのがふさわしいと考えた。 』(ウィキペディア)、史実とも合致しています、


『ザビエル一行に待ち受ける渡航異変』

 ザビエルは、マラッカをジャンク船で出航しました。航海中、悪夢に悩まされました。不安を訴えた相手が、日本人改宗者のパウロ(アンジロー、史実ではヤジロウ)でした。緑色のぬめったヘドロ状の大小とりまぜた異様な生物が、地にあふれ、襲ってくると・・・・。


 ザビエルの一行には、数名の部下と白人船乗りも同乗していました。ザビエルの危惧は実現する方向で働きました。やがて、ジャンク船とと平行に、水妖とも言うべき怪物がつきまとい始めます。岩礁とも言うべき大きさであり、海中には魚のような胴体部分が隠されていました。


 異変はそれだけに止まりませんでした。絶えられないほどの異臭を発散しながら、巨大な球状の生物が海中から浮上してきたのです。タコのような吸盤を持った数百本の触手を伸ばし、船員たちに襲い掛かります。同行者は体を引き裂かれ無残な死体を甲板上にさらします。


 脅えるザビエルとアンジローはただひたすら神に祈りました。周囲の光景は、教会が説く地獄そのままの様相でした。球状の生物のために海面は割れ、全貌を現します。表面には多数の血管が走り、粘液を吹き飛ばしています。ザビエルははじめて理解しました、夢で自分を呼んでいたのは、この怪物であったと・・・・。


 同行者たちがザビエルに救いを求めました。しかし、ザビエルは非力でした、船員も宣教師も次々と魔物によって悲惨な死を遂げていきます。次第に、祈りを唱え続けるザビエルのろれつが回らなくなりました。生き残っている者は、もはやザビエルとアンジローのふたりのみとなっていました。


 気が付けば、周辺の海は何事もなかったかのごとく平穏であり、殺戮された同行者が以前どおり働いていました。1549年8月15日、ジャンク船は鹿児島に到着します(史実どおり)。


『ザビエル、布教す』 

 海上の異変を体験したザビエルにとっては、かつてのキリスト教など笑止千万なものでした。戦国大名・島津貴久に拝謁したザビエルは、世界征服も可能な権力を暗示し、新しい教義を以て籠絡します。貴久が菩提寺の福昌寺に造らせた奇怪な建物が、日本で初めての南蛮寺となりました。


 当然、家臣・僧侶団の反発がありましたが、貴久は黙殺します。ザビエルの次なる野望は、京でした。翌1550年、平戸を経由し、京に上り、後奈良天皇および足利義輝との拝謁を願い出ますが、すげなく拒否されました。


 ザビエルがここで動きます、京の町中で死せる老婆を蘇らせたのです。市中の評判となりますが、それを冷ややかに見つめていたのが柳生宗厳(むねよし、後の石舟斎)でした。市助なる供の者を連れています(伏線となっています)。


 ザビエルは柳生の存在を感知し、京を即刻立ち去り、平戸に舞い戻りました。そして、周防(山口)に向い、この地でこれまでで最大の布教を開始します。大内義隆を信者とすることに成功したのです。そして、いよいよ本性を現します。多数の子どもたちを誘拐し、喰いつくしたのです。大内義隆は諌める家臣を一括します・・・・。


 ザビエルはさらに大友義鎮(後の宗麟)が領する豊後に手を伸ばしました。そして、老婆を生きかえらせた「虫の玉」を宗麟に飲ませます・・・・。ところで、ここまでの活動を通じて、ザビエルには新しい教えに対する概念がまとまっていました。その用語として使われたのが、次のものです(著者が大好きな遊びです)。


主Christ → C.th.ris(クトルス)

聖母マリア → 不動明王+羅刹天 → フドウラ

No God → Dogon(ドゴン)

 

 ザビエルから教義を聞かされていた宗麟の口元から、虫がだらりとはみだしてきます・・・・。すべては上手くいっているように思えたのですが、下剋上の世の中です。子どもを喰らう領主・大友義隆に対し、家臣から謀反が起きたのです。悪い知らせはさらにありました。屋敷が柳生の手の者によって囲まれていたのです。


 決死の脱出口が始まります。後詰として残ったのがパウロことアンジローでした。その本性を現し、柳生一族に立ち向かいます。ですが、抵抗もれまででした、柳生の者に討ち取られます。それでも、アンジローはザビエル一行を逃すことはできました。


 それでも、崩壊する城を見つめるザビエルには、日本を支配できるとの確信がありました・・・・。


『エピローグ ザビエルの死、そして、聖人に』

 いったん日本を脱出し、ふたたび広東の上川島に戻ったザビエルは、仮小屋の中で伏せっていました。そして、12月3日、亡くなります。ところで、ザビエルが服用した薬は、日本人の市助から購入したものだと言われています・・・・。


 ザビエルの遺体は腐敗することなく、生者のごとく生き生きとしていたと言われています。その後、ヴァチカンによって聖人のひとりに列せられました。


 なお、布教当初、便法的にデウスをダニチ(大日如来)としたことについては、ザビエルの誤りだと指摘されています。一方、日米修好条約の締結によって、外国人居留地内の信仰の自由が認められました。そのことを知った数名の農民が隠れキリシタンであると言ってやって来ています。


 ですが、対応した神父は、農民たちが口にした言葉によって天を仰いだと言われています。『 海の底なる鶴の家におわします御父怒権(ドゴン)、御母不動羅(フドウラ)、天帝たる九都流水(クトルス)の御名によりて、あんめいぞう 』(かっこ書きは、私が書き加えたものです)


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