第9380回「日本文学100年の名作 その2、1916年 寒山拾得 森鴎外ストーリー、ネタバレ」 | 新稀少堂日記

第9380回「日本文学100年の名作 その2、1916年 寒山拾得 森鴎外ストーリー、ネタバレ」

 第9380回、「日本文学100年の名作 その2、1916年 寒山拾得 森鴎外ストーリー、ネタバレ」です。「寒山拾得」に関する事項をウィキペディアから検索しますと次のようになります。


 『 寒山拾得(かんざん じっとく)は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承。またこれを題材とした以下(森鴎外、井伏鱒二、坪内逍遥)の芸術・文芸・芸能作品。 』


 『 (寒山の)伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。


 食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。』


 『 拾得は、中国で唐代に浙江省にある天台山の国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。


 寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得は箒(ほう)を持った姿で表現される。 』


 ウィキペディアからの引用で、この20ページほどの短編の紹介は終わっているようなものですが、とりあえず文豪のストーリーを追うことにします。なお、この短編は青空文庫に収録されています。


「その2、1916年 寒山拾得 森鴎外著」

 『 唐の貞観の頃だと云うから、西洋は七世紀の初日本は年号と云うもののやっと出来掛かった時である。閭丘胤(りょ きゅういん)と云う官吏がいたそうである。尤(もっと)もそんな人はいなかったらしいと云う人もある。・・・・ 』(作品冒頭)


 なぜ閭という人物が登場するかと言いますと、地方長官として赴任する直前、これまで悩みに悩んでいた頭痛をひとりの乞食坊主に治してもらったことがあったからです。その坊主の名前が、国清寺の豊干(ぶかん)でした。伝承では、釈迦に擬せられています。


 赴任早々、閭は豊干がいると言われている寺へ行きます。案内する僧に、ぐーたら坊主の拾得はいるかと訊きますと、寒山と遊んでいるとの返答でした。当時すでに、拾得は普賢菩薩、寒山は文殊菩薩と言われていたそうです。では、豊干は何ものであろうか、と閭は考えを回らせます。


 正式に自己紹介する閭に会った瞬間、寒山と拾得のふたりは「豊干がしゃべったな」と笑いながら言い、逃げ去ったそうです。


(蛇足) この後、森鴎外による「附寒山拾得縁起」のタイトルで、鴎外自身が創作メモを掲載されています。軽い雰囲気で書かれた中国咄に仕上がっています。


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