第9391回「日本文学100年の名作 その5、1919年 ある職工の手記、宮地嘉六著、ネタバレ」 | 新稀少堂日記

第9391回「日本文学100年の名作 その5、1919年 ある職工の手記、宮地嘉六著、ネタバレ」

 第9391回は、「日本文学100年の名作 その5、1919年 ある職工の手記、宮地嘉六著、ネタバレ」です。宮地嘉六の青年期までの略歴をウィキペディアから引用することにします。


 『 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1895年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。


 労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作「煤煙の臭ひ」「或る職工の手記」などはこの時代の経験を母胎としたもの。この間東京で苦学をしたいと3度上京を試みる。2度目の上京時には鉄工所や造船所で働きつつ正則英語学校に学び早稲田大学で聴講にも通う。 


 ・・・・ (忘れられた作家であったが、新作の発表によって再評価された。)大正デモクラシーの時代にあって、素朴で、地味な勤労者の生活記録を書き留めた作品群は、プロレタリア文学運動史の前史、草分け的存在として意義付けられる。 』


 当時、すでに職工の社会的な地位は低くなっていました。ですが、宮路は職工であることにプライドを持っていました。そのことが他のプロレタリアート文学とか私小説とは一線を画しています・・・・。「ある職工の手記」は、40ページ余の自伝的な短編小説です。


 なお、原作には章設定がなされていませんが、便宜上、サブタイトルをつけることにします。また、主人公・清六の一人称"私"で物語は進行しますが、「清六」と表記させて頂きます。


「その5、1919年 ある職工の手記」宮地嘉六著

『継子いじめの家系』

 ≪ 私の家はどういうわけか代々続いて継母の為に内輪がごたくさした。代々と云っても私は自分の生まれない以前のことは知らぬが、父の時代が既に既にそうであった。父は早く実母に死なれて継母にかかった。・・・・ ≫(小説冒頭)


 継子イジメは、洋の東西を問わず頻繁に行われていたようです。その代表例が「シンデレラ」などのグリム童話群です。父親は継母の下で肩身の狭い幼少・青年期を送ってきました。そして、息子の清六も同様の境遇に置かれることになりました・・・・。


 継母はとかく自分の娘を可愛がり、清六に対しては、ことあるごとに隠然と嫌がらせをしてきました。さらに、家も貧しく、卒業を待たずに小学校を中退する破目になりました(義務教育とは言え、往々にしてあったようです)。当然、家にいると、継母と衝突し、家には居づらくなりました。父親は後妻の肩を持ちます・・・・。


『長続きしない奉公』

 そんな清六が奉公先として追い出されたのが仕立て屋でした。ですが、長続きしません。さらに呉服屋にも勤めたのですが、ここも追い出されてしまいます。もはや、実家は清六にとってはわが家ではなくなつていたのです。


 そんな時に、帰省中の先輩に出会います。佐世保で職工として働いているそうです。清六は奉公にはうんざりしていました。先輩の話を聞くうちに、心のどこかに職工になりたいという願望が目覚めます・・・・。その理由のひとつが、継母との暮らしに耐えられなかったからです。

 

 ところで、父親は佐賀ステーションの駅前で宿屋を経営していました。父親と一緒に働くことに、清六としては異論はないのですが、猛烈に反対したのが、やはり継母でした。


『佐世保へ、そして、少年工として働く』

 継母との軋轢の結果、これまでに何度も家出を繰り返していました。清六が13歳の年、ついに自立を決意します。父親にも告げずに、佐世保行きを決行したのです。当時、佐賀・佐世保間は半ばの武雄までしか開通していませんでした。武雄駅で働いていたのが叔父でしたが、清六には冷淡でした。


 武雄から佐世保までの十里(四十キロ)は歩く必要があります。旅の道連れとなったのが好々爺とも言うべき老人でした。途中で一泊し佐世保に着きます。そこで゛偶然出会ったのが、佐賀で車夫をしていた善作でした、面識のあった善作は佐世保の造船所で働くのであれば、家に泊めてやってもいいと話します。


 そんな善作の息子、権八も造船所で少年工として働いていました。翌日から早速、造船所で働くことにしました。日当は20銭、業務の内容は日清戦争で戦利品として接収した艦艇内部からのサビ取り(カンカン叩き)作業でした。健康面では辛い仕事でしたが、当初からの目的である「自立」は達成できました。


 彼にとって最もつらかったのが、職場の人間関係でした。継母との関係が、そのまま職場に持ち込まれたも同然だったからです。そして、好意で家に泊めてくれている善作の息子・権八がねちねちとイジメを繰り返します。ついに権八と殴りあいになりました・・・・(この職場での職場でのいじめは、マルクスであれば「人倫の喪失態」と呼ぶような代物です)。


『納屋住み、そして、本格的な職工へ』

 家に帰って来た清六を、善作の妻は激しくなじります。後から帰ってきた権八に、清六は黙って殴られたままでした・・・・。事情を聞いた善作は、逆に息子を殴りつけます、何度も何度も・・・・。「いつまで居てもらってもいいんだよ」、ですが、こんな騒動を起こした以上、いつまでも善作の世話になりっぱなしという訳にもいきませんでした。


 そんな時に、ふと思い出したのが実父のことでした。父親はきっと自分のことを心配してくれていると・・・・。一方、造船場での少年工の仕事であるカンカン叩きも終わっていました。造船場に残りたければ、納屋住みという職能集団に入るのが、数少ない選択肢のひとつでした。


 事実上のタコ部屋である納屋住みには、三つの組が入っていました。清六が雇ってくれと頼んだのは、最初に訪れた木工集団でした。すんなり採用されます。彼の指導役に当ったのが老人でした。楽な仕事を廻してくれます。彼は初めて温かい人間関係を知ることができました。仲間からも可愛がられます。

 

 最初の一年間は試用期間です。清六が希望したのは、あくまで金属加工の分野でした。最初は「危険だから止めときな」と言って諌(いさ)めていた仲間でしたが、親方の推薦もあり、すんなり採用されました。本格的な職工人生が始まったのです。


『面会に来た継母と実父』

 納屋住みを始めてしばら経った頃、継母がやってきました、ド派手な格好で・・・・。あれほど嫌いぬいていた継母でしたが、何故か仲間たちに誇る気分になっていました。工場中を案内します・・・・(このあたりが、プロレタリアート文学とか私小説とは異なるところです)。


 そして、父親も佐世保にやってきます。ほとんど会話らしい会話は成り立たなかったのですが、清六にはそれで十分でした。二晩泊まって佐賀に帰っていきます。


 ≪ ・・・・ 私は既に成る一群の思想ある放浪職工等に親しんで将来の行動を共にすべく堅く誓っていたのであった。私もその一人であった。もう私には父や故郷を顧(かえり)み慕うているひまはなかったのだ。


 其の翌年、私は在る同士に加わる為に関西へ飛び出した。それからのことは、あらためて他日発表するであろう。 ≫(文末)、実際の履歴では、16歳の頃だと推定されます。


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