今日は、私が福祉の仕事を始めた頃のことで、今の自分につながっている思い出を書きたいと思います。

高校の時から手話を勉強したりハンセン病問題に関心を持ったりはしていたのですが、仕事として福祉に関わり始めたのは今から3年半ほど前です。

世田谷で、介護保険のヘルパーの仕事をしていました。
ヘルパー2級の資格を取って初めての仕事で、ドキドキしていました。
ヘルパーの講習で習ったのは、高齢者に話をするときはゆっくりと大きい声で話すこと。明るく接した方が良いということ・・・

私は元々あまり声が大きい方ではありませんが、できる限り明るく元気にする努力をしました。

Aさんは80代前半の女性。独り暮らしでした。認知症ではありませんでしたが、多少の物忘れはあり、でもデイサービスなど外出するサービスは利用したくないとおっしゃっている。誰とも話をしないのは良くないから、ということでケアマネジャーさんが考えて、ヘルパーを入れることにしたそうです。

Aさんはいつもテレビの前のコタツに入ってぼーっとテレビを眺めていました。
「デイサービスは、年寄りばかりがいるでしょ。若い子と話せるなら楽しいけど、年寄りと話すなんて、気疲れするだけだから嫌なの」とAさんは言いました。(私は、子どもも一緒にいられるような場所があったら良いのにな、と思いました。)

「長唄が好きなんだけど、そんなことができる場所があれば行ってみても良いんだけど」とも言いました。(私は、いろんなプログラムがあるデイサービスがもっといっぱいあればいいのに、と思いました。)

そんなAさんの思いはケアマネさんには伝えたけれど、ケアマネさんは「へー、そう」とだけ答えました。ケアマネの質の向上も必要だと思いました。

Aさんは、60代で亡くなったご主人の話をいつもしていました。ある朝突然、亡くなっていたのだそうです。「前の晩からちょっと調子が悪いと言っていたから、あの時病院に行っていれば…」。
毎週お邪魔するたびに、Aさんはご主人のお話をしました。
ご主人とはよく一緒に飲み屋さんに出かけたりしていたそうで、かなり仲の良い夫婦だったようです。
Aさんの心は、約20年前、ご主人が亡くなった時点で止まってしまっているのかもしれない、と思いました。

現在の外の世界に出て行こうとはあまり思えないAさんに、その時の私ができることは、ただ元気に接することでした。私が最近やらかした間抜けな失敗を、面白おかしく話してみたり…ヘルパー初心者の私にできることとして、そのくらいしか思いつかなかったのです。

今になって思うのですが、その時の私はどこかで、「どう接したら良いのだろう」という悩む心を隠すために、演技をしていたような気がします。

ある日、Aさんがまたご主人の話を始めました。
「主人が亡くなったとき、どうやら私は色々なところに連絡を取って、気丈にふるまっていたみたいなんだけど、今になってもそのとき自分がどんな行動をとっていたか、思い出せないのよ。気づいたら親戚が集まってきていたの」。

ふと、私はその気持ちは分かるな、と思いました。
私は19歳の時に母を亡くしました。母が亡くなってからお葬式が済むまで、数日間何をしていたか、私もあまりはっきり思い出せなかったからです。

Aさんに話しました。でもいつもの通り、少しでも明るくできるように、と思いつつ。
「私も母が亡くなったときのこと、よく覚えてないんです。私、ばかなんですよ。母が亡くなったというのに、なぜか急いで商店街に行って、お茶を買ってきちゃったんです。なんであんなことしたんだろうって今でも笑えてしまうんです。」

そうしたら、Aさんがぽつっと答えました。
「それはきっと、お茶が必要だと、思ったのよね。」

明るくしていなくちゃいけないという気負いが急に取れて、なんだか涙が出そうになりました。
それまで、そういう風に言ってくれた人は、いなかった気がするからです。

私とAさんの関係は、ヘルパーと利用者だけど、ヘルパーが利用者に何かを「してあげる」なんて考えるのは、とんでもないおごりだと、その時心の底から思いました。

私は何をしていても、私でしかない。背伸びをしても、演技をしても、ダメだと思いました。
今の私にできる最大限のことを、体当たりでしていくしかない。自分らしく。

それから保育園で働いたり、福祉施設向けの研修機関で働いたり、障害者のヘルパーをしたりしてきましたが、いつでもそれを心がけています。
あるがままの私で。

これからどんな仕事に就くにしても、それだけは忘れてはいけないと、思っています。