★【加藤和】エピソード1~水泳を始めてから中学入学まで~ | JSB 佐藤三兄弟のスイミングスクール オフィシャルブログ ~Embodies the Dream!~

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私達JSBは水泳経験や性別、年齢、障害の有無など、いかなる要素も関係なく、すべての人の水泳における夢と目標を全力でお手伝いします。

みなさんいかがお過ごしでしょうか。

コロナで自粛生活が続き、ストレスも溜まっているかと思います。

私も走ったり、しまってあったプッシュアップバーを取り出し腕立てしてみたり、スムージー生活してみたり、旬のものを使って料理してみたり、そんな日々を過ごしています。

今回は、何回かに分けて水泳を始めてから引退するまで、オリンピックまでの道のりを振り返っていこうと思います。

第一回目は、水泳を始めてから中学校入学までです。

泳げない期間がこんなに長くなるとは誰も想像できなかったとは思いますが、今までの水泳に対する考え方、取り組み方をゆっくり振り返る絶好のチャンスだと思います。

少しでもこれから選手として頑張っていこうと思っているみんなに勇気と希望を届けられればと思います。振り返って書いていたらとても長くなってしまったので、時間があるときに読んでもらえたら嬉しいです。

 

 

では振り返っていきましょう。

まずはどんな小学生だったかを話していきたいと思います。

両親ともバスケット育ちの体育教師の家で育ちました。夏はプールや海、秋は親子マラソンや陸上、冬はスキー、そして地域対抗があり、毎年春から夏にかけて女の子はフットベースボールを団地のみんなでやっていました。長距離走が以外と速く、小学校6年生の時は800メートル走で福島市で優勝したこともあります。なぜか私の小学校のマラソン大会は56年生は4キロの山道だったので今思えば、とんでもない小学校だなと思いますが、私は走るのが大好きだったのでこちらも優勝していました。鼓笛も高学年全員参加だったのでトランペットなら吹けます笑

スキー教室があったり、長いマラソン大会があったり、楽しい行事がたくさんの小学校で過ごせて、水泳だけじゃなくてたくさんのスポーツをさせてくれたことが水泳にたくさん生かせたと思います。鍵っ子だったので小学校から帰ったら、ランドセルを玄関に置いて、幼馴染4人といつも外で遊んでいました。木に登ったり、カブトムシ探したり、自転車で農協の駐車場で爆走し、新幹線ごっこをして転んで血が出たり(危ないので真似しないでね)、当時ローラーブレードが流行っていたので道路で競争したり(これも真似しないでね)やんちゃで活発な小学生でした。

小学校まで片道2キロあったので毎日、幼馴染と一緒に通っていましたが、一年生の時ある事件が起きます。登校時間の1時間も前にいつも家を出て、みんなと合流して小学校に向かっていたのですが、登校時間になっても学校にこない私達を心配して、先生が通学路を迎えに来たと言う事件です。みんなで遊びながら学校に行っていたので、時間がわからず、遅刻してしまったのでした。とにかく幼馴染とたくさん遊んで、いろんなスポーツもたくさんさせてもらって、それが本当に水泳をする上でとても大切な基礎になったと思っています。ピアノも保育園から高校2年生まで続けました。水泳の次に長く続いた習い事です。笑

ということで長くなってしまいましたが、水泳の話に移っていきたいと思います。

 

 

小学校1年生になってスイミングスクールに通うことになりました。

兄が通っていたのを見ていて、私も習いたいとお願いしたそうです。

私の記憶では、スイミングの日に、兄だけアイスを買ってもらっていたのを見ていて、アイスが食べたくて、食べたくて、どうしようもなくて。笑

水泳を習えば私もアイスが食べられると思ったのがきっかけです。

あの時アイスが好きでよかったなと今は思います。

そして週に1回、スイミングスクールに通わせてもらうことになりました。

このスイミングスクールで6歳から20歳までの14年間、濃い時間を過ごすことになるとは想像もしてなかった私は、ただアイスのためにスイミングスクールに通い続けていました。

 

順調とはいかず、けのび、クロール、背泳ぎが終わったのは3年生の頃でした。一番時間がかかったのは背泳ぎです。永遠に背泳ぎのクラスにいるのかなって思ったこともありましたが、最後にある遊び時間が大好きだったので、特に気にすることはなく、いつも通り楽しく通っていました。

それに、けのび、クロールは水泳の中でとても大切な基本をたくさん練習するので、時間がかかってよかったなと思います。何事も早ければいい、ということではない気がします。人それぞれ時間がかかること、早くできることは違います、成長するスピードが遅くても、必ずそれでよかったと思える時が来るんだと思います。

そしてこの辺りから、週に2回通うことになりました。平泳ぎは飛び飛び級をしてすぐ終わり、バタフライも大好きだったのですぐ終わり、全部終わったなって思った時に、フロントの大好きな先生に呼ばれて封筒を渡されました。この時はもう5年生になっていました。

帰って、中身を確認したら、選手コースに入りませんかという手紙でした。

私は選手コースに入りたい!!!とお願いしました。

小学生の間だけとゆう条件だった気がしますが、5年生になって選手コースに入らせてもらえることになりました。

私の両親は昔バスケット選手だったので、中学校からはバスケをやるとゆう暗黙のルールが存在していたからです。。笑

 

 

ここで一つおもしろエピーソードを。

2回スイミングに通うことになり、鍵っ子だった私は小学校から帰宅したらスイミングのバックを持ってバスで行くのがお決まりになっていました。ある日、いつものように、バスに乗る場所まで歩いていました。早めに家を出て、ルンルンで歩いていたら、団地の家の犬が脱走してしまい、そこに現れたのが私です。当時、私の家でもダンクという名前の(ダンクシュートからとったらしい笑)中型犬を飼っていましたが、ダンク以外の犬は怖かったので、私めがけて走ってくる犬が恐怖で、動くことができず、私に飛びかかってきました。その時腕を噛まれ、出血。しかしパニックの私は思いっきりスイミングバックでその犬を殴りました。その瞬間ひるんで逃げた犬の顔は今でも覚えています。笑

飼い主さんがやってきて出血している私を見て、病院に行こうって言ってくれたのですが、その犬が恐怖すぎてなぜか、大丈夫です。プールで消毒してもらいます。と言ってその場を立ち去りました。そして、プールに行き泣きながら、犬に腕を噛まれたとプールの大好きなフロントの先生に言ったら、消毒してくれて、今日はプール入っちゃダメだよと言われ、母に電話をしてくれて、慌てて迎えに来るという、とても迷惑をかけたお話です。

その日の夜、噛んできた犬の飼い主さんがお菓子を持って、謝りに来てくれたのは言うまでもなく。。なぜプールに行ったのか、あの状況で、犬を殴った凄さ、今でも忘れられないおもしろエピソードです。

話を戻します!!!!

 

5年生になり週に7回練習するようになりました。練習についていけるわけもなく、周回遅れになるのは毎回のことで、たくさん怒られたけど、一生懸命練習して半年くらいで練習にもついていけるようになりました。試合も出るようになって、始めてスイミングスクールの全国大会に出ることになりました。まさかの初出場で2位になり、JOまで切ってしまった私はとてもうれしかったです。だがしかし、ここからが地獄の始まりとなります。笑

 

選手コースは大体上のクラスがJOに出られる中学生から高校生、下のクラスがそれ以外と2つのクラスだったので、まだ私は下のクラスにいました。やっと練習についていけるようになった頃、JOが切れました。その当時のコーチは選手コースに入る前から知っていて、優しくて大好きなコーチだったので、とても楽しく練習に行っていたのですが、JOが切れてしまった私は、JOまでの短期間だけ、泳ぎをおしえてあげるという理由のもと、上のクラスへ上げられてしまいました。この上のクラスのコーチをしていたのが、私の恩師になりますが、いつもいつも怒っていたので、毎日の挨拶も怖くて怖くて恐れながら挨拶をする、話しかけられない場合はこちらからは挨拶のみというコーチのところに入らなきゃいけなくなりました。

その当時の私の脳内はこんな感じです。サイクル回れなかったら怒られる。遅くても怒られる。頑張っても怒られる。うるさかったら怒られる。周回遅れになっても、最後まで泳がなきゃ怒られる。自分で止まるなんて言語道断。とにかく泳ぐ。ついていけないから毎回全力。

必死で怒られないようについていく毎日を過ごしました。夏合宿は3校同時合宿で他のコーチのクラスに入って喜んでいたら、200mIM×10315秒サイクルなんて当たり前で、止まったら怒られるから、泣きながら泳いでいました。長水のプールで水温も低くて、止まれない泳ぎ続ける、コーチたちの恐怖から逃げられない地獄の合宿。この時人生で最初で最後ですが限界すぎて、仮病を使ってトイレに逃げ込みました。後にも先にもこれ一回です笑

みんなも一回なら使ってもいいですよ。人生で一回をいつ使うかは大切に判断してください。笑

私は小学5年生ですでに使い果たしてしまいました。笑

 

地獄の合宿も終わり、鬼だと思っていたコーチも実は優しいと気付き始め、6年生になって初めて出場したJ0で6位になりました。とても嬉しかったし、初めて自分で努力して、辛いことも耐えて、結果を残せた喜びと、同年代の5人に負けた悔しさの二つの感情があったのを覚えています。そして、まだ水泳をこれからも続けていきたいとゆう感情になっていきます。

ということは、ここからバスケをやってほしいと思っている親との勝負になっていきます。笑

短期間だけ限定の上のクラスも怖くて毎日必死でついていこうと頑張ったら、ついていけるようになり、コーチもびっくりしたようですが、そのまま上のクラスとなりました。短期間でここまで成長できたのは確実に、陸上で走っていて心肺機能が高かったからだと思います。

さあ、小学6年生の私がどう両親を説得したのかという話になりますが、コーチも私が水泳は小学校までということを知っていたので、そのつもりでいたようですし、当時そのことを知っている他のコーチも和は小学校までって言ってたから、続けるなんて思ってなかったよと言われたこともありました。でも、どうしてもJOで負けた5人にリベンジがしたいし、水泳の頑張った分だけ結果としてしっかり報われるのが楽しくて楽しくて、続けたい続けたい続けたいと強く思うようになりました。ある日の夜ご飯前、両親に勇気を持って話そうと思い、まずは母に中学校に行ってからも水泳がしたいと伝えました。自分の意思は自分で伝えるルールだったので、お父さんに自分で話してと言われました。そして、父に水泳がしたいと話しました。少し考えさせてほしいと言われたのを覚えています。当時はバスケやってほしいから悲しませちゃったかなとか、ダメかなとか色々考えましたが、今思えば、水泳をさせないという話ではなくて、両親でどう送り迎えをしていくかという話をしてくれていたんだと思います。田舎育ちの私の家からプールまでは

距離があったので確実に練習が終わった21時半頃には迎えに行かないと夜の街灯の少ない道を自転車で帰らせるわけにはいかないし、毎日迎えに行く生活をするには覚悟が必要だったと思います。

数日後、今でも覚えていますが、水泳を続けてもいいよと言われました。

だけど、自分で決めたことだから、最後までやり遂げなさいと言われました。

途中で辞めたり、投げ出したりしないように、自分で決めたことに責任を持ちなさい。

協力できることは協力するからね。と言ってくれました。

小学生だったけれど、自分で決めるって責任があるんだな、どんなに辛くても投げ出しちゃいけないと強く思ったのと同時に、できるのかわからない不安もありました。

でも、水泳ができる喜びが大きかったのを覚えています。

ここで親に勝利した私ですが。。。笑

 

 

中学校進学にあたって、母からある提案がありました。

公立の小学校に通っていた私は普通に幼馴染と一緒に中学校も行くんだと思っていました。

しかし、水泳を続けるなら、高校までエスカレーターで進学できる私立の学校に入学した方がいいんじゃないという母の提案があり。。。柄にもなくお受験というものをすることになります。

これは確実に母の希望をうまく洗脳されたと思いますが笑

今となれば、よかったなと思います。ごきげんようが挨拶の私立中学校に入学するなんて、外で遊ぶのが生きがいだった私には考えられないですが、水泳とは関係なく大切な友達に出会えたすごく貴重な時間でした。ということで、家から5キロある学校まで毎日自転車で登校し、学校が終わったら、プールまで自転車で行き、宿題をして、軽食を食べて、練習をして、お迎えに来てくれた車に自転車を積んで家に帰るという日々がこれから6年間続いていきます。

 

 

長くなりましたが、一つ一つの選択が人生に大きく影響していきます。

水泳を始めて、中学校入学までは必死にみんなについていく。

コーチに言われたことは時間がかかってもやりぬく。

そんな必死な毎日が続いていきましたが、自分の気持ちに嘘なく毎日を過ごしていたと思います。やるべきことをやる毎日を過ごすのは意外と厳しく弱い気持ちに負けてしまうこともあると思いますが、今できることを続けていくことが、自分のためになります。

自分で決めたことに責任を持って、苦しくても、前を見て進んでいきましょう。

 

 

コロナウイルスの緊急事態宣言で自粛生活を送っている皆様、医療従事者の皆様、力を合わせて、早く元の生活に戻れるよう頑張っていきましょう。

次回は中学生〜高校3年生までを振り返っていきたいと思います。

中学校入学後の水泳シーズン前に早々入院という大事件から書いていこうと思います。