ケツァルコアトルって何?

ケツァルコアトルって何?

最近、ブログ名を変更しました。健康のこと、スピリチュアルなこと、映画のこと、パソコンのこと、ドラマのことなどを書きたいと思います。

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こんにちは。あきらです。
突然ですが、はてなブログに移行するか検討中です。
既にいくつか最新の記事については、はてなブログにて投稿しております。
今後も最新記事については、はてなブログに投稿する予定ではありますが、試験的なものです。
その為、当面、最新記事はこちらのアメブロには投稿しません。

最新記事はこちらをご参照ください。
http://shimodateakira.hatenablog.com/
<終章>

なぜ、こんな重いテーマを取り上げたのか?
私自身は「日本」という国に住み、「日本人」として生活していながら、なぜ、迫害だのテロリズムだの正義だのと論じたのか?

日本という国は戦後70年を迎え、「集団安全保障の容認」、「積極的安全保障」、「テロリストとは交渉しない」、「テロには屈しない」といった言葉が飛び交っている。
現在進行形の国の方針や政策について、いくら興味が少なく、政治に疎い私でも、さすがに「危ない方向に傾きつつあるな」という事を実感している。

日米安全保障条約、自衛隊のそもそもの成り立ち(警察予備隊)、現代の国際社会及び、日本国における自衛隊の在り方、憲法第9条という不確定装置の有効性、そして、私達日本人の「選択」。
様々な要因が絡み合って、様々な懸案事項が今、ひしめき合っている。
そんな有り様なのに、関連法案はどんどん閣議決定されてゆく。

その一方、海外では連日の如く、テロのニュースが流れている。
世界の警察として自負しているアメリカは様々な地域で軍事活動を実施しているが、日本国は同じテンションで同調して良いものか、考えさせられる。
同盟国であるアメリカが「テロリストとは交渉しない」、「テロには屈しない」と言うのは、アメリカ自身が信ずる正義なのだから、他国の日本国がとやかく言う義理はない。
しかし、日本国がアメリカの同盟国だからと言って、まったく「同じテンション」で「テロリストとは交渉しない」、「テロには屈しない」と安易に同調するのは違う気がするのである。

今回の法案の中には、自衛隊が戦闘地域における弾薬の補給や物資の運搬を担当することも含まれている。
連日、テレビに登場する様々な評論家のコメントでは、「戦闘に巻き込まれる可能性が高まるのではないか?」といった意見が出ている。
私はこれを聞いた時、「高まる、なんてそんな悠長なものではない。」と思った。

弾薬の補給や物資の運搬を担当するということは、

「米軍の兵站に自衛隊が組み込まれる」

というとこを意味している。

「兵站」とは、前線で実施される軍事(戦闘、偵察、制圧等)、前線を維持する為の補給基地(ベースキャンプ)の設営、弾薬や食料の補給活動、兵士の訓練や休息等々、戦略に基づいた前線を維持する為の一連の軍事的活動の運用を意味する。

軍事的戦略において、補給路を絶つ、或いは補給基地を破壊する、といった軍事作戦は敵の前線を押し下げる場合のセオリーである。
補給路を絶たれたり、補給基地が破壊されれば、弾薬が切れ、食料も絶たれた前線を維持することはできない。
それゆえ、補給基地や補給活動は狙われる可能性が最も高いのである。

もし、補給活動中に戦闘状態に陥った場合、自衛隊は果たして自衛の為の殺害を実行することが可能なのか?
同盟国の兵士である米兵を守る為に、自衛隊は果たして殺害を実行することが可能なのか?
少年兵をテロリストと見なして殺害を実行することが可能なのか?

考えさせられる。

彼ら(アメリカが適用しているテロリズムを実行する者)に自衛隊員による威嚇射撃は恐らく通用しない。
専守防衛を貫くには、あまりにも厳しい選択を迫られる局面もでてくるだろう。
自衛隊員に死傷者が出て、初めて防衛的攻撃をすることになるのではないか?
自衛隊員は軍人ではない為、自衛隊員が死亡した場合、「戦死」ではなく「殉職」なのだ。

日米同盟を根拠とし、戦闘地域に派兵される自衛隊員にとって「何の為に命を賭けて戦うのか?」、自衛隊員の気持ちは私個人には計り知れない。

「政治には興味がない、上官に従って適切に迅速にミッションを遂行するのみ」という模範的回答があるかもしれないが、果たしてそれで割り切る事が現実にできるのか?

本来、軍人とは徹底したリアリストであり、指揮/命令系統に従ってミッションを遂行する。
それが例え前線を維持する為の人的犠牲を払うことがあっても、或いは、到底、戦闘とは呼べない一方的な虐殺行為になるとしても、軍人はミッションを遂行する。

だが、自衛隊は軍ではない。
確かに軍事力は備えているが、そこに宿る精神は到底、軍人のそれではない。
「専守防衛」に込められた本来の精神をあらためて問いたい。

そういった諸々の事を最近、考えてきた結果、「まずは原点に立ち戻って、なるべく公平に、なるべく第三者的に、なるべくシンプルに」といった視点で、この文章を書いてみた。

- 以上 -
<正義とは?>

正義とは何か、考えた事があるだろうか。

この世界では、実に様々な正義が存在する。
大きなレベルにおいては国家、民族、宗教、小さなレベルにおいては個人の立場、関係性など、様々な要因によって正義は定義される。
正義は世界で一つではない。非常に多くの正義が存在するのである。

問題なのは、人という種が正義を定義する時、「その正義だけが唯一無二の正義である」と定義した場合である。
そして、これを定義した者は、他者にこの正義を押しつけるケースが少なくない。
他者がその正義を受け入れない場合、正義を定義した者は正義を大儀とし、迫害を実行する。

これは自然発生的な迫害ではない。人為的な迫害である。

警察権において、正義の正当性を証明することは可能なのか?
国際社会において、正義の正当性を証明することは可能なのか?
ご近所付き合いにおいて、正義の正当性を証明することは可能なのか?

自己の中で信ずる確固たる正義について、正当性を証明することは可能なのか?

「正義とはなんと、うさん臭い代物だろう」と思うかもしれない。

正義は、それを計る物差し(基準)がなければ正当性を証明できない。
その物差しが複数存在して、それが相反する関係性を持つのであれば、それらの物差しを別の物差しで計らなければならない。
だが、その物差しでさえ、それ自身の正当性を証明する必要がある。

全世界、全ての人が納得する共通の物差しというものは、存在し得ない。
それゆえ、全ての人が納得する正義というものもまた、存在し得ない。
それゆえ、国家、民族、宗教、個人など、様々なレベルにおいて、正義の多様性が存在し得るのである。

多様な正義があって良い。

これは決して、その時々の都合に合わせて正義を都合よく改竄することではなく、また、都合よく解釈するものでもない。

そうではなく、様々なレベルの自己の信ずる確固たる正義があれば良い。

相反する正義に対しては、「対話」によってお互いの立場を理解しようとする努力を続けることが肝要である。
状況によっては「対話」のレベルを越え、「交渉」のレベルに遷移する局面もあり得る。
その場合、いかなる犠牲を払ってでも「交渉」を諦めない確固たる意志が必須となる。

決して、「正義」を大儀とし迫害を実行する状況に、自らを貶めてはならない。
<罪と罰>

迫害とテロリズム。
この二つの関係性は、上部に伸びる螺旋状の構造となっており、上部に伸びるに従って螺旋の径が広がる。
螺旋の径は規模を示しており、上部方向は時間軸である。
そして、螺旋そのものは迫害とテロリズムが相互に繰り返し、繋がっている。

最初に迫害があり、そして、報復としてのテロリズムがある。
そのテロリズムに対して、迫害する者は更に大きな力で迫害を実行する。
その迫害に対して、虐げられた者は更に大きな力でテロリズムを実行する。
そうしてこの螺旋はすくすくと成長する。
まるで大蛇の如く。

虐げられた者にとって、迫害とは「罪」以外の何者でも無い。
だが、迫害する者は迫害を認識しない以上、自らの罪を贖う事は、決してしない。
それゆえ、虐げられた者は迫害され続け、テロリズムを実行せざるを得ない状況に陥る。
テロリズムが実行された時、迫害する者はテロリズムを断罪し、「罰」として更に迫害を強化する。

そうして迫害される者は生存権さえ奪われかねない危機的状況に陥ってゆくのである。
(生存権とは、自己の生存だけとは限らない。自己に関係するあらゆる他者「両親、兄弟、親戚、戦友、同志、友人、知人、そして、指導者」も含まれる)。
他者を迫害によって失い、生きる希望をこの世界に見出せなくなった者はテロリズムを実行することによって迫害する者に訴える。

「なぜ、私達を迫害するのか?」
「なぜ、私達が暴力を受けなければならないのか?」
「なぜ、私達が殺されなければならないのか?」

そして、テロリズムを実行する者は、自己をこの世界から「脱出」させる事で、迫害によって亡くなった者に再び会う事を望んでいるのである。

テロリズムによって自己の命を捨て、亡くなった者に再び会う事が出来るのかは分からない。

だが、これだけは言える。
その訴えは決して、迫害する者には届かない。
そして、テロリズムを実行する者はその事に気付いている。
それでもなお、テロリズムが実行されるのは、「亡くなった者に会える」というたった一つの希望があるからである。

ある少年がいた。
少年は明るい性格で一見、幸せそうに見える、どこにでもいそうな少年だ。
ある時、少年は街中で鼻を突き出し、「何か」を嗅ぐ仕種をし、こう言った。

「でも死ぬ事を考えるのは嫌いじゃない。だって、死ぬ事を考えると母さんの匂いがさ、こんなふうにするんだ」

少年は数日後、"それ"を実行した。
その瞬間、少年の表情には「笑み」があった。

いったい、何が「罪」で、何が「罰」なのか?
問わずにはいられない。
<テロリズム>

もう一つの重要なテーマ。

テロリズムである。

テロリズムは自然発生的には存在しない。
そして、人という種以外の種には、テロリズムというものは、存在しない。
なぜ、そう言いきれるのか?
答えは、迫害の中に隠されている。
迫害する者は「それを実行するに足る正当な理由が存在する」という動機を大義とし、迫害を実行に移す。

そして、迫害をする者にとって、この大義とは「正義」なのである。
正義であるからこそ、堂々と迫害するのである。

この「正義」という概念が、実に厄介な代物なのである。
国家レベルにおいては「安全保障」、宗教レベルにおいては「神の裁き」と解釈される。

迫害によって虐げられた者は、自己の生存権、正当性、無罪を主張するものの、それが聞き入れられず、迫害を受け続ける。

国家レベルにおいては「テロ支援国家」、宗教レベルにおいては「異端」という形でレッテルを張られる。

動物的行動において、同種の多数の集団が少数の集団を攻撃する事は珍しくない。
(ヒエラルキーにおいては、少数の上位の立場の者が多数の下位の立場の者を迫害する例はあるが、このヒエラルキー構造は容易に瓦解する可能性を秘めている為、迫害が成功したとしても、継続的に迫害を続行できる保証は無い)

これらの動物的行動は人という種とそれ以外とで違いは無いが、「正義」という概念を人という種が獲得した事によって、人という種はそれ以外の種から分岐してしまった。
そして、人以外の種に「正義」という概念は存在しない(ひょっとするとあるかもしれないけれど、人はそれを感知することが出来ない)。

それゆえ、テロリズムとは人という種のみに存在し、「迫害そのもの」が「それを実行するに足る正当な理由」になるのである。

テロリズムにおいて最も忘れてならない事実は、「昨日まで善良な市民であった者が、迫害を受けた事によって'今日から自己の命が果てるまで'テロリズムに手を染めざるを得ない状況に陥ってしまう」という事だ。
この事実は、<迫害>で記述した「右手でお互いが銃を突け付き合ったまま、左手で握手している」という状況とは全く異なり、非常に危機的な状況である。

<序章>で、

テロリズムを実行する者は、「自分がテロリズムを実行している」という認識がない、或いはその認識が減殺されている。

と記述した。

なぜ、認識がないのか?
それは、そもそも「テロリズム」という言葉を迫害する者が勝手に定義し、勝手に適用しているからだ。
この事は、「それを実行するに足る正当な理由」と同義である。
つまり、迫害に対する報復を「テロリズム」と称しているのである。

これが人という種におけるテロリズムの定義なのだ。
<迫害>

自然発生的迫害は、ふとしたきっかけで始まる。

それは他者を理解できなかった場合、或いは理解しようとしたがそれが叶わなかった場合、自己の感情に恐れが芽生えた瞬間である。
自己は恐れを認識すると、自己防衛という免疫反応が起こる。生存本能といってもいい。
だが、人という種の場合、それだけでは迫害を説明できない。

人以外の種の場合は、他の種に対して、或いは同種であっても他の集団に対して迫害をする事はないが、自己が帰属する種、或いは集団は、それ自体を防衛する為に、或いは生存を計る為に、他の種、他の集団を攻撃するという動物的行為は存在する。

1.テリトリーの防衛的攻撃
2.テリトリーの奪取
3.自己の生存に必要な捕食
4.捕食をする為の訓練
5.天敵への防衛的攻撃

人という種の場合、上記と同等の動物的行為が認められるが、異なる部分が存在する。
まず人という動物には種レベルにおける天敵は存在しない(または、公には認められていない)。
また、自己の生存の為の捕食は動物とおおよそ同等だが、その役割は分業化され、さらに捕食量は需要を大きく上回る事も珍しくない。
捕食する訓練は、捕食が分業化された結果、獲物に直接、手を掛ける者しか行われない。
この点において、人という種は、間接的と言わざるを得ない「原罪」を忘れがちである。
これら3、4、5については、人という種とそれ以外の種では、異なると考えられる。

他の項目についても考察しよう。
テリトリーとはひとつの種における集団が物理的地理的な生活圏を定義する。
テリトリーは種の長によって支配され、その生活圏は長の指示の下、その集団によって他の集団から安全が守られるよう防衛的攻撃を行う。
また、場合によっては、他のテリトリーを攻撃し、奪取することもある。
この動物的行動は、人以外の種について述べたものだ。

しかし、人という種については、こう単純にはいかない。
したがって1、2についても人という種とそれ以外の種で、異なると考えられる。

人という種は、実に様々なレベルでテリトリーを定義する。

a.国家
b.民族
c.宗教
d.党派
e.個人の経済格差
f.学校
g.会社
h.肌の色
i.家庭

aについては、戦争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
b、cについては、紛争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
dについては、政争という形で自己を主張し、他者を排斥する。
e、f、g、hについては、差別という形で自己を主張し、他者を排斥する。
iについては、一見、他者を愛する形として見えてはいるが、実際には無意識に自己愛を主張し、愛すべき他者を排斥する。

無論、ここに挙げたレベルはほんの一部に過ぎない。
人という種は、何かと理由をつけてテリトリーで自己を縛り、縛ることによって自己が安心、安全へと導かれる事を信じている。

排斥という言葉を使ったが、現実にはそのような生易しいものではない。
現実には排斥ではなく、排除である。まず、間違いなく。
「そんな大げさな」という意見もあるだろう。
しかし、現実に排斥に留まらず、排除に至ってしまった世界的・ご近所の例は、枚挙に暇がない。

これが人という種における迫害の定義なのだ。
そして、その迫害の心理的状況は、とりも直さず我々一人ひとりが少しづつ持ち得るものである。
ここでいう我々とは、決して世界市民の事ではない。
あらやるレベルのテリトリーに縛られている市民なのだ。

「お隣の国は何を考えているか分からないから危険だ。防衛の為に軍備を強化しよう。」
から
「お隣に住んでいる人の肌の色は私と違うから気味が悪い。何を考えている分からない。防衛の為に銃を購入しよう。」

まで実に様々なレベルで免疫反応が起こる。
そして、これは始まりに過ぎない。

次の段階では、

「お隣の国は何やら軍備を強化しているぞ。攻撃の準備かもしれない。こちらも防衛の為の攻撃の準備をしよう。」
「お隣に住んでる人は何やら最近、銃を購入したらしい。こっちも自衛の為の銃を購入しよう。」となる。

そして、最終的には、全てのレベルにおいて、

「こっちは攻撃の準備は万全だ。だから攻撃するなよ! 絶対だ! 絶対だぞ!」
(ちなみに「早いとこ、攻撃しろ」というギャグ的フリではない)

とお互いを牽制し合う。

この状況は国家レベルの視点でみると、今日では既に有効性が絶たれているが(もしくは国家としては到底、無効だということを認めたくはないが)、「核抑止力」という形になる。
国家間の核戦争は、核による報復攻撃が想定される為、右手でお互いが銃を突け付き合ったまま、左手で握手しているようなものである。
これが核抑止力による極一時的な、そして、酷く脆い平和である。

だが、これが民族、宗教レベルでは、状況が一変する。
民族や宗教は物理的地理的なテリトリーに縛られない、論理的思考的なテリトリーだからである。
それゆえ、民族、宗教レベルの闘争は、国家を跨いで全世界的同時的に発生する。

ある個人が、どの民族に帰属し、どの宗教を信仰するのか、といった事はその個人の問題であり、他者が口を挟むことではない。
しかし、現実には口を挟む他者が存在し、その個人を排除しようと企み、それを実行に移す。

なぜ、口を挟む者が存在するのか?
その理由は、いくつかあるが、一番シンプルな理由は、他の民族、他の宗教を理解する事ができず、自己の感情に恐れが芽生えるからだ。

さて、ここまで論じてきた考察には、多分に疑問点があるだろう。
だが、まだ、考察は終わっていない。
まだ、この話に興味を示される方は、引き続き付き合って頂きたい。

<序章>


迫害する者は、「自分が迫害をしている」という認識がない。

なぜなら、その者は「それを実行するに足る正当な理由が存在する」と信じているからである。


テロリズムを実行する者は、「自分がテロリズムを実行している」という認識がない。

なぜなら、その者は「それを実行するに足る正当な理由が存在する」と信じているからである。


予め記しておくが、この文章では迫害やテロリズムの善悪について考察するものではない。

迫害やテロリズムが善である、悪である、という単純な帰結には到底、至らないからだ。


・まず、全世界の空を封鎖する!
・軍事航空、一般航空、宇宙航空、ミサイル、ロケット弾、人間が空を利用することを全世界同時に禁止する。
・人類は交通のひとつを失い、空は1910年代まで退行する。
・HCLI(国際的武器運送会社。「H&C Logistics Incorporated」)が打ち上げた126機の衛星、衛星測位補助システムと、私と天田南(あまだみなみ)博士が開発した量子コンピューターが実現するヨルムンガンドとは、空、海、陸の順の人間の行動制限と、地球上のありとあらゆる物流の完全制御。
・私のこの手によって造られる強制的世界平和だ!
・武器商人が!これだけたくさん人間がいて口々に平和を望んでみて、皮肉にも武器商人が!世界で最も早く真の平和に王手をかけてんじゃん!
・どいつもこいつも馬鹿じゃないの?
・軍隊と兵站(へいたん)の分離。
・そう、私の最終目的は、人間と軍事を切り離すことだ!
・あなたたちは最後まで銃を持つ、最後の兵となり、私を守るのだ。

若き女の武器商人、ココ・ヘクマティアルが自分の部隊と博士達に対して、ヨルムンガンド計画について吐いたセリフだ。

この後、博士のひとりが「おいおい、正気か?神様にでもなるつもりかって?」と問う。
ココは応える。
・神は天使を送り、アシリア18万5千を滅したという。
・神は軍人を軍人として攻撃したのだ。
・その程度が神の所業と言うのなら、軍を無効化させ、人として開放する私の力は・・・神を越えているな。

そこで元少年兵ヨナが問う。
「何人死ぬの?」

ココは応える。
・ヨルムンガンドの犠牲者の数?オッケー。南に訊(き)いてみよう。
・確かに全世界同時飛行禁止で犠牲は出るよ。でも、これから戦争で死んでゆくであろう人数と比べるとちょっとなもんだよ。あ、もう、返信きた。現在、飛行機等で空中にいる人々は68万3822人だって。たった70万人。それがどうかした?ヨナ?

その瞬間、ヨナがココに銃口を向け、レームがヨナに銃口を向ける。
ヨナが叫ぶ。
「そんなの・・・そんなの絶対にダメだ、ココ!」

ココが応える。
・言っておくがヨナ、私が死んでもヨルムンガンドは止まらない。
・この私がさあ、計画を、君の引き金に左右される場所に置くと思う?
・君に明かしたということは、私にこれから何が起ころうと、ヨルムンガンドは実行され、新しい世界が必ず来る、ということだ。

ヨナがなおも食い下がる。
「ココは間違っている・・・」

ココが涼しい顔で応える。
・何が?70万人の犠牲のことなら、必要最低限と言ったでしょう?
・まさか、ヨナも、今の世界って結構パーフェクトに近くて、そんな残酷なことまでして変えるべきではない、とか思ってる?
・君の言葉、「世界が好き」、これってお世辞と希望でしょ?
・みんな一人ひとり、ちょっとやさしくなれば、すごく世界は輝きだす!...かも!
・フフーフ。残念だがそれは...「無い」。
・私が戦場を歩いて感じ取った空気。
・今のままでいくと、10年以内に大きな戦争が起きるよ。
・これは「石油」でなく、「水」を奪い合う戦争。
・もう始まってるとこもあるよ。
・人間は水を飲まないと生きていけない。
・文字通り、死に物狂いで戦うよ。
・第一次世界大戦では4000万人、第二次世界大戦では6600万人。
・第三次世界大戦では何人、死ぬ?
・私は世界が大っ嫌いだよ!ヨナ。
・どこ行ったって、戦争、戦争。
・道端に死体が転がってて嫌い!
・武器が嫌い!
・こんなずるい道具で脅された時の感情。
・思い出すだけで頭が割れそうになる。
・軍人が嫌い!
・特に命令には絶対に服従なんて思考停止してるヤツとか、ガスで膨れ上がった死体より臭い。
・戦争で子供が死んで悲しみに満ちてみて、次の年にはまた子供作っちゃったりしてて、「この子を戦士にするぞ」とか言ってんの。もう、アホだよね?
・人間が嫌い!
・私も同じ動物かと思うと絶望するよ。
・でも、私が売った兵器で死んだ人間だけは、哀れみ、申し訳なく思っている。
・武器商人である私が嫌い!
・逃げられなかった。だが、才能はあるようで、金はバカスカ舞い込んだ。
・ある時、ひらめいた!
・この金を全て、平和の為に使ってやろう。
・戦争で死んだ者の魂が、私を許す、唯一の言葉。
・「あなたたちの死を糧(かて)にして、私は世界平和を作り上げたんだ。」
・世界はラッキーだよ!
・これだけ世界が嫌いな私が、世界の破壊ではなく、世界の修繕を望んだ事がね。
・武器が無い世界なら、少しは好きになれるかもしれない。

ココが毒を吐くこのシーンを、私はとても気に入っている。
シリーズを通して、ポーカーフェースで通してきた彼女が、このシーンでは素顔を晒しているからだ。

この後、ヨナはココの部隊(PMC)を離脱し、キャスパー兄ちゃん(ココの兄、同じく武器商人)に拾われて、2年間、世界の戦場を渡り歩き、悩み抜き、考え抜いた結果、ココの部隊に復帰して、ヨルムンガンド発動!というところで物語(1期、2期)は終わる。

ヨルムンガンド発動後の描写は存在しない。
オープンエンディングと呼ばれる手法らしい。この後は視聴者の皆さんのご想像にお任せする、という事だ。
私はこの終わらせ方で良かったと思う。

海外の反応を見ると、「3期を作って欲しい」だの、「ヨナにココの額を銃でぶち抜いて欲しい」だの、誠に可愛いらしく、愚かな感想が目立った。

オープンエンディングで終わらせた物語は決して再開させてはいけない。
これは私の持論である。どんなにその物語が好きで、どんなにその物語の登場人物が好きであっても、決して再開させてはいけない。

なぜ、そこまで再開を否定するのか。
私はその一例を以前、拝見し、経験したからである。
その昔、装甲騎兵ボトムズというアニメーションがあった。この物語はアストラギウス銀河を分かつ百年戦争の末期、少年兵であったキリコ・キュービーと、軍によって造られた女性型パーフェクト・ソルジャー、フィアナの物語である。
物凄く短く説明すると、最後はキリコとフィアナは結ばれ、冬眠カプセルに一緒に入って、仲間との別れを惜しみつつ眠りにつき宇宙空間を彷徨う、目覚めた時には戦争のない平和な世界になっている事を信じて、というオープンエンディングだった。

このテレビシリーズ終了後、熱狂的なファンからの後押しで、OVAが制作された。
それが問題の「赫奕たる異端」(かくやくたるいたん)」である。この物語では、二人は冬眠カプセルから目覚めるのだが、フィアナはパーフェクト・ソルジャーであるが故に、寿命で死んでしまう。

なぜ、監督はヒロインを殺したのか?
理由はさておき、主人公の大事な人を殺す、舞台から下ろす(退場させる)、という選択をした事実がある。
理由は、このブログを読んだ方自身で調べてほしい。
重要なのは、オープンエンディングで終わらせた物語を再開させた結果、こうなった、或いははこうした、という事実である。

これを私は思い出し、ヨルムンガンドに当てはめた時、もし私が監督で、無理矢理、3期を創ろうとしたら、「ヨナを殺すだろう」、という結論に至った。

ヨナは、真っ黒に染まってしまったココの魂に残る、最後の灯火(良心)だ。劇中では「枷」(かせ)と表現している。リミッターのような捉え方だ。

それが無く(亡く)なった時、消された時、外された時、ココはどうなってしまうのか?
海外の人は、その状況に陥った時のココを見たいのか?
少なくとも私は見たくない。
ヨルムンガンド計画は、そもそも強制的世界平和を実現させる為のひとつの方法論でしかない。
それでも、その新しい世界を見たくて、劇中の人々も、私たち視聴者もココの話に乗ってしまう。少しでも世界が変わり、今の残酷な世界より少しはマシになるかもしれない、という儚(はかな)い望みに縋(すが)るのだ。

だから、ただ「望み」だけが最後に表現されていれば良い。
「ほんとに朝っぱらから中島でいいんですか!?」 (Wikiより引用)

中島みゆきさんがNHKからオファーを受けた時、中島さんが言ったらしい。
ホントに面白い人だ。

麦の唄はドラマの為に作られたフルスクラッチの歌だ。多分、私もステレオタイプであるが、やはり、良い物は良いと認めざるを得ない。

詞の中に「その全てと離れても あなたと歩きたい」とある。作詞の過程でこの一文が浮かんだ時、「この詞は9割方、完成した」と言っても過言ではない。

詞の中でエリーの確固たる決意が表明された瞬間、物語は一人歩きを始めるからだ。
作詞とは厳密には、詞を作る事ではない。
そこに秘められた想いをひとつづつ丁寧に拾い集める作業だ。想いを自分勝手に作るとトンチンカンな詞ができてしまう。
そうではなく、ひたすら想いを拾い集めるのだ。

麦の唄は、素晴らしい。
NHKがあからさまに鉄板の中島さんにオファーを出した事を差し引いても、素晴らしい。

朝っぱらから中島!
いいじゃありませんか!

『ガラガラクタクタ』

いつでもどこでも ここ掘れワンワン
あんたがあたいに ゆうことにゃ
掘れども掘れども ガラクタばかり
あんたはいったい なんなのさ?

朝からまたまた ここ掘れワンワン
あんたがあたいに ゆうことにゃ
ザクザク ザクザク 大判小判
あたいはほんとに ついてるよ

落ち葉の中から ここ掘れワンワン
今度はいったい なんなのさ?
出てきた出てきた かわいい子猫
この猫 猫の子 どこの子さ?

あちこちウロウロ ここ掘れワンワン
あんたがあたいに ゆうことにゃ
見つけた見つけた 子猫の家族
記念に小判を やったのさ