国史跡、前田砲台跡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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前田砲台は、長州藩の攘夷実行のために下関沿岸に築かれた砲台のひとつですが、まだ行ったことが無かったたので、今日、車で行って来ました。国道9号線沿いの高台です。現在、世界遺産にするための整備のためか特に説明や注意は掲示されていないが、隣接の私企業の敷地も含めて工事中です。駐車場も特に無く、整備が完了するまで待って下さい。

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砲台から西方向、火の山、ベアドの写真とほぼ同じアングル、正面の辺りは古代山陽道の終点、臨門駅の跡があるであろうと言われています。

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国道9号線、長府方向、右手が関門海峡であるが、建物で遮られている。草地に砲台跡が残っているらしい。さらに左は私企業の敷地になっている。

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国道9号線、上り、壇ノ浦から長府方向に行く途中の左手に見えるので、手前の坂道に入るために左折する。この看板の裏側が説明になっている。

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説明板の左手上に、門司の古城山が見える。

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平成11年(1999年)からの発掘調査で、当時の土塁や排水溝、敵艦から打ち込まれた砲弾などが発見されたとのこと、砲身等はすべて当時戦利品として奪われ、確かフランスのナポレオンが祀られている廃兵院に展示されていた。砲20門を装備していたとのこと。ここの場所以外にも、西方向、御裳裾川砲台まで全部で7カ所あり、60余門の大砲が接収され、この大砲一門が百二十年後の昭和五十九年(1984年)、永久貸与の形で下関市に返還され、長府博物館に古文書などのガラスケースの隣に展示されています。また御裳裾川公園にレプリカの大砲が展示されている。

詳しくは、以下のとうり「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のHPからコピペしました。

 前田砲台は、幕末の下関での攘夷戦争において、長州藩が下関海峡沿いに築造した砲台の一つです。西の関門海峡から東の周防灘までを一望できる高台上に位置し、監視や防衛に適した要害の地にあたります。

 砲台(台場)は、文久3年(1863)の攘夷決行に備えて築造された「低台場(ひくだいば)」と、フランス艦船の砲撃による破壊と陸戦隊による上陸、占拠を経て、翌、元治元年(1864)のイギリス・フランス・アメリカ・オランダからなる四国連合艦隊の下関砲撃(下関戦争)前に増築された「高台場(たかだいば)」の二つから成り立っています。

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占領された前田砲台低台場
1864(元治元)年 [横浜開港資料館所蔵]

関門海峡を舞台とした幕末の対外衝突は、薩英戦争と共に日本が最初に経験した近代国際戦争であり、前田砲台は最も激烈な戦場となりました。特に、元治元(1864)年の四国連合艦隊来襲時には、圧倒的戦力差の前に2度目の占拠を喫し、砲台施設は焼き払われ、設置された大砲はことごとく接収されました。

 この状景が連合軍従軍写真家ベアドにより撮影され、新聞イラストとして広く配信されたことから、前田砲台は世界的にもその存在が知られています。また、占領当時、イギリス軍が作成した砲台実測図がイギリス公記録局に残されており、史料の上で、その構造を把握することができます。

 近年実施された、発掘調査の結果、高台場からは現在の地表にもその痕跡を留める土塁が確認され、低台場からは大砲を設置するために整地された平坦面や、その背後の一段低い平坦面が確認されました。また、その底面からは砲台が焼き払われた痕跡と考えられる焼土の分布が明らかとなり、地中にめり込んだ状態で砲弾が出土するなど、砲台の具体的な構造はもとより、激しい攘夷戦の様相も浮き彫りにしています。

 これらの発掘調査成果と文献史料の比較検討の結果、イギリス軍による砲台測量図と発掘された地下遺構は見事に合致し、砲台の具体像がより明らかとなりました。このことが、「前田砲台跡」の遺跡としての歴史的な価値をますます高めることとなりました。

 下関海峡での幕末の対外衝突における惨敗により、西洋との国力差を痛感した長州藩は攘夷から開国に転じ、その後の日本の近代化に大きな役割を担うこととなりました。このため前田砲台跡は、日本が歩んだ近代化への端緒として、象徴的な遺跡であるといえます。

 平成22年8月5日、前田砲台跡は、「長州藩下関前田台場跡」という名称で、国史跡に指定されました