唐戸の亀山八幡宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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唐戸の亀山八幡宮(山口県下関市中之町1-1)をお参りしました。幕末、伊藤博文夫人、梅子さんがお亀茶屋で働いていました。その隣に外国船撃退の砲台が有りました。その他、豊臣秀吉が参拝したとか、床屋発祥の地など記念碑があります。


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左下のフクの隣りの亀のあたりがお亀茶屋

ご由緒をホームページからコピペしました。


亀山八幡宮は、下関市の中心地に祀られています。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されました。

「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮がある地は、古くは島でありました。

平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)

「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。


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お亀茶屋がココ

室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願しました。戦国時代、国内はもとより当藩も疲弊し神社も荒廃していましたが、藩主大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、その財でもって社殿・楼門等が修築されました。当時朝鮮と交易していたとはいえ海外に寄進を仰いだことは稀有なことであります。次の藩主義隆も神社の興隆に力を注ぎ神領550石を寄進され、次いで毛利藩主も300石を献じ能舞台等を建立。元禄15年(1702)には「長門国三社」と号されています。江戸末期の文久3年(1863)に藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867)に国難去ったとして剣馬を寄進されました。このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬・庇護が篤いお社であります。

明治7年に郷社、同34年県社。昭和43年に別表神社に列し、下関60ヶ町の氏神様として尊崇されています。

十返舎一九は「金草鞋」に、「・・・・亀山八幡とて岩の上にありて波打際に石の鳥居立てり山上は見渡し絶景の処なり・・・・」とありますように、関門海峡の清流に臨み帯水を隔て九州連邦を望見する佳景は、古くから「鎮西第一勝の地」(杏雨)・「西海第一関」(有朋)と称えられ、古今文人墨客の詠風を伝えています。室町時代の連歌師の飯尾宗祇は「秋遠し亀の上なる峯の松」と詠じ、江戸時代の俳人大淀三千風は「亀の守神松風や常かほり」と吟じ、明治時代中期の地元の俳人中野水月は「風かほる宮居や洋を右左」と詠んでいます。


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正面階段と鳥居を見下ろす。さらに向こうは関門海峡。道路手前側に山陽道終点の碑があるが、西の永福寺が真の終点。左手にあった堂崎の渡しの舟番所が九州への接続点となっていた。


参考



② 亀山の由来

鎮西第一勝亀山宮

ここも戦災にあって焼けてしまったが、以前は楼門と廻廊が整っていた。中之町にある。

亀山という称号の由来には諸説があるが、宇佐八幡宮の神山菱潟山の別名である亀山によったというのが一番妥当なようである。

祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇である。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


③ 昔の亀山八幡宮

亀山八幡宮

これも昔の八幡宮である。廻廊で涼んでいる姿が見える。

清和天皇の貞観元(八五九)年一二月、豊前の字佐八幡宮より分祀したものである。楼内は大内義隆が寄進したものであるが、これも焼けてしまった。

境内に「お亀銀杏」があるがこれも焼けた。今二代目がかなり大きくなっている。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)