天の原、青海原 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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阿部仲麻呂が唐から帰国する段になって送別会で作った歌の中に「天の原(あまのはら)」が出てくるが、紀貫之が引用した土佐日記では「青海原(あおうなばら、おおうなばら)」となっている。これを位置関係から推測すると、現在の東シナ海から対馬海峡、玄海灘、響灘あたりが、天の原または青海原になるのであろう!

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参考

遣唐使 阿部仲麻呂が36年ぶりに帰国を許され、日本へ船出するにあたり、明州(現在の浙江省寧波)で送別会を開いてもらいました。その席で詠んだ歌を引用した紀貫之の土佐日記にある歌(参考)を紹介する。

・原歌: 青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

・現代語訳: 青海原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私のふるさとの春日にある三笠の山の上に出る月と同じなんだよなぁ。

送別会のあった唐の寧波は揚子江の出口あたりにあり、東に奈良の都がある。寧波に出た月は、既に奈良の三笠の山に出た月と同じ月齢(形)になる。

紀貫之が撰者の一人となった古今和歌集(8-406)の歌(参考)では、「青海原」ではなく「天の原」となっている。青海原と天の原が同一と言う常識が当時はあったと思われる!


以下の二人の唐の友人たちの歌について、東シナ海を蒼海とか碧海とか詠んでいる(参考)。この蒼海や碧海は大和言葉で訓ずると青海と同じく「あおみ、おおみ」となり、唐の人の頭の中でも東シナ海から対馬海峡あたりを指すと思われる!青海原(あおうなばら)と原を後置すれば、東シナ海近辺の広々とした青い海原を意味しよう!

仲麻呂が帰国すると聞き、親しくしていた詩人の王維は歌を詠んでいます:

翻訳文:
秘書晁監の日本国に還るを送る
積水 極む可からず
安んぞ 滄海の東を知らんや
九州 何れの處か遠き
万里 空に乗ずるが若し
国に向かって惟(た)だ日を看(み)
帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身(うしん)は天に映じて黒く
魚眼は波を射て紅なり
鄕樹は扶桑の外 主人は孤島の中
別離 方(まさ)に域を異にす
音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや

原文:
送祕書晁監還日本國
積水不可極
安知滄海
九州何處遠
萬里若乘空
向國惟看日
歸帆但信風
鰲身映天黑
魚眼射波紅
鄕樹扶桑外
主人孤島中
別離方異域
音信若爲通

長安には「朝衡(阿倍仲麻呂)が死んだ」という噂が届きます。「なに!あの高潔な朝衡が!海に沈んだと!」李白は親友朝衡を失った悲しみを歌に詠んでいます:

翻訳文:
晁卿衡を哭す
日本の晁卿 帝都を辞す
征帆 一片 蓬壷を繞る
明月帰らず 碧海に沈む
白雲 愁色 蒼梧に満つ

原文:
哭晁卿衡
日本晁卿辞帝都
征帆一片繞蓬壷
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧


万葉集147番、天智天皇が御病気の時に倭皇后が奉られた御歌一首「天の原  振り放け見れば  大君の  御寿は長く  天足らしたり 」の通り、「天の原  振り放け見れば、、」は古くから詠われ、現在は「果てしなき大空を仰ぎ見れば、、」と普通に解釈されている。

しかしながら、紀貫之は阿部仲麻呂の歌を「青海原をはるかに見渡して見れば、、、」と解釈した。当時、果てしなき大空を仰ぎ見ても何も見えないはずで、青海原の向こうを見渡すと解釈したほうが自然である。


ところで、古今和歌集の中のこの歌については実は阿部仲麻呂は作歌していなかった!彼は結局のところ帰国出来ずに唐に客死しているが、生前には奈良の都に春日や三笠の山はまだ命名されていなかった(参考)!貫之の自作自演であると思われる!