弥生人の中国大陸での出発地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県の土井ヶ浜の弥生人①と佐賀県の吉野ヶ里の弥生人②をそれぞれ、響灘文化と玄界灘文化の代表として考察する。

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すなわち、響灘文化の弥生人は山東省あたりから山口県の土井ヶ浜に渡来し、玄界灘文化の弥生人は江南地方の例えば河姆渡遺跡あたりの稲作文明発祥地から北九州に渡来した。

中国大陸の出発地を検討する。稲作技術の獲得については、稲作文明発祥地の河姆渡遺跡あたりの江南と考えられるが、人の移動には2ルートある。①の山東半島経由、土井ヶ浜上陸のルートでは山東半島近くの臨淄あたりで漁業文明と接触して魚食文化を獲得し、海人族と海の幸を米と交換した。②の江南から北九州への直行ルートでは蛋白源の獣や魚を狩猟で獲得する自給自足生活を維持し、海人族との交流は①に比べ薄いものとなった。

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①山東半島、黄色ルート、②江南、赤色ルート


参考


①-1 山口県土井ヶ浜人の故郷、臨淄  りんし  山東省


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中国・山東省の中央部に存在した,春秋戦国時代の斉の国の都である。


斉:

古代中国のの国は,周の武王に軍師として仕えた太公望・呂尚が,現在の山東省の地に封土を与えられて成立した国である。春秋時代の桓公の時代,製塩業や漁業などの産業が発達するとともに軍事力が強化され,斉は一大強国へと成長した。つづく戦国時代にも,戦国の七雄の一つに数えられる大国として勢力をもった。


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臨淄:

春秋戦国時代には,商工業の発展を背景に各地で都市の発達が起こったが,なかでも斉の都である臨淄は中国最大の都市として繁栄した。また,斉の君主は学問の保護に熱心で,天下の学者たちを集めてその活動を保護したため,臨淄は諸子百家らの活動の主要な拠点となるなど,当時の中国における学問の最大の中心にもなった(参考)。


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土井ヶ浜弥生人の遺骨は全員、山東半島方向を向いて眠っているとか!






②-1  佐賀県吉野ヶ里人の故郷、河姆渡 かぼと 浙江省

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稲作の渡来ルート(第一ルート①と第二ルート②は伝えた民族が若干異なった)

浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優となる。第4層の土器の主なものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほど,石器が漸増して骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。骨器には鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工した多くの耜が注目をあびた。石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見された。栽培稲のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在のところ,東アジアにおける水稲の最古の実物標本といわれている。また,とち・ひし・桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚がおり,水牛もいたようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの骨も出土している。当時の河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,狩猟・漁労や採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も行われていたのである。住居は大きな材木で構築された高床式で,柱をくりぬいてはりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥などのほか,玉製の管・珠・ケツ・コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属の動物の生態および植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在よりも温暖多湿で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたるといわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地域の文化と並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 【中国社会科学院考古研究所編著『新中国的考古発現和研究』1984,文物出版社】






 ミトコンドリア遺伝子によると、山東半島経由の渡来人(土井ヶ浜弥生人、①)と江南地方(浙江省、河姆渡遺跡など)からの渡来人(吉野ヶ里の弥生人、②)は異なる特徴があった(参考)

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 山口県の土井ヶ浜①と山東省、佐賀県の吉野ヶ里②と江蘇省(浙江省北隣)の出土人骨が各々、似ている。

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 土井ヶ浜人は縄文人と特徴が大きく異なっていた。

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 福岡県にも土井ヶ浜の弥生人と同じ特徴の弥生人が出土する様だが、渡来後の交流の結果(福岡県から土井ヶ浜弥生人が駆逐された!)とも考えられるが、北九州の福岡県から佐賀県は甕棺墓制の文化でまとまり、山口県は響灘文化(石棺墓制)、福岡県、佐賀県あたりの北九州は玄界灘文化(甕棺墓制)と大きく分類できる。

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⑦  米種類については玄界灘タイプ、有明海タイプ、西海タイプになると言う。しかし、本州最西端あたりの米については調べられてはいない。さらなる研究が待たれる。稲の種籾については、交換や強奪によって交流が早い。

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参考⑥との関係で、土井ヶ浜・斉系弥生人と同じタイプの人骨が福岡市、春日市あたりに出土した結果と比較すると、元は響灘から玄界灘あたりが一つのグループ(土井ヶ浜・斉系弥生人)で玄界灘タイプの米を作付けしていたが、時代が下って福岡平野あたりは有明海あたりの吉野ヶ里・呉系弥生人に占領され、水田ごと種籾を取られた可能性が高い。基本的に方言と言う民族制度に関わる特徴については、土井ヶ浜・斉系弥生人と吉野ヶ里・呉系弥生人の境界線は福岡県古賀市と福津市あたりから動いていない(参考)。