日本列島への渡来ルートに関する一考察 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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稲作弥生人の渡来について、長江辺りから朝鮮半島経由とか、直接、東シナ海を渡って北部九州に上陸したと、従来、考えられていた。

しかし、どうも少なくとも2系統有りそうだ!一つは山東省あたりから、対馬、沖ノ島、山口県の土井ヶ浜あたり(①)、もう一つは長江あたりから、壱岐、北部九州の福岡市あたり(②)です。

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黄: 土井ヶ浜・①響灘文化、赤: 九州・②玄界灘文化

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土井ヶ浜タイプを響灘文化(①、実際は範囲がもっと広い)、吉野ヶ里タイプを玄界灘文化(②)と呼ぶ


前者①は魚介類食の稲作弥生人で鳥類を神格化して、石棺墓に葬られる。後者②は鶏などの肉食の稲作弥生人で在来の縄文人の文化を引き継いで甕棺墓に葬られた。話す言葉も異なり、前者①は「イ、チャ、チョル、、」を語尾に付け、後者②は「カ、タイ、バッテン、、」を語尾に付けた。彼等の大きな違いは、前者は海人族と魚介類と米を交換して共存したが、後者は鶏などと米を自給する民であった。


前者は山陰海岸に沿って東部に拡大し、後者は瀬戸内海を東行した。弥生時代後期以来、新たな渡来人が対馬、山陰海岸に渡来して、現地の海人族、弥生人と共存し、山陰海岸の東西に拡大し、倭国大乱を引き起こした。倭国大乱に勝利した山陰人が畿内の大和の纒向に首都を置いた。すなわち、邪馬壹国が誕生した。


参考







②-2 邪馬臺国にはニワトリが居なかったので、九州の福岡市以南の北九州は範囲外となる


③  wikiによると
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すなわち、朝鮮ルートと呉のルートがあると言う。両方どちらのルートを取っても良いと言う意味では無く、二つの異なる弥生人が別ルートで別の地点に渡来した事を示唆している。


 大和民族は同化して魚介類を主に蛋白源にすることになっているが、実際には地域毎に鶏肉その他、獣肉を総合的に食し、現在は牛、豚も食して区別出来なくなっている。しかし、食料消費統計を見ると弥生時代からの食習慣が伺える。


  響灘文化について



⑤-3 筑紫の日向は北九州であるが、響灘文化圏の津屋崎であった

⑤-4 663年の白村江の戦いの敗戦後、北九州の博多湾(那津)と、山口県長門市あたりに行宮を作った

⑤-5 663年の白村江の戦いの敗戦後、百済遺民を下関市あたりで受け入れた




玄界灘文化の広がり、福岡県西南部、佐賀県から瀬戸内海を東進する。

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(参考) 壱岐に有り、対馬には無いことに注意

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筑後平野の水田


響灘文化の広がり

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北九州の津屋崎、宗像から北東に拡大している。古墳時代は牛・馬を携えた渡来人が山陰地域に渡来して、田畑を開拓した。

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向津具半島の東後田の棚田と烏賊釣りの漁火