邪馬臺国からヤマト、日本につながる渡来人として、縄文人、弥生人、秦氏があり、その関連を羌(チャン)族、斉、秦、呉と言う古代中国の民族、国の関係を明らかにしたが、これを完全に肯定した報告を見つけたので、以下の参考資料を見て欲しい。ここでは抜粋をコピーしたが原文のURLを添付する。
ただし、誤解があり、チャン族は斉、秦(D系統)として、山陰を経由して邪馬臺国を建国した。吉野ヶ里は呉から渡来した呉系弥生人(O系統)で、直接のつながりは薄い。「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」と言う一文から、吉野ヶ里と羌戎を結びつけたと思われるが、当時、弥生時代、紀元前207年以前には、羌戎(斉系弥生人のルーツ)も吉野ヶ里(呉系弥生人)も日本列島に存在し、徐福はこの辺の事情を知っていたのである!
参考
① 報告の表紙
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。
最近大騒ぎになったイ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている。
1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究によると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。その後、また別の日本の学者も「倭人(日本人)の源流は雲南」という見方を発表している。
わたしの個人的な考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な文化を受け継ぎ、発展させた。日本民族の源流が雲南であるかどうかは、わたしは研究したことがないので、勝手な結論を下せない。ただ、チャン文化は東方の民族に無視できない貢献をしたのは確かだと思う。文化の共通性は、各民族がたえず文化を融合させることによって、歴史を動かし文明社会に向かって発展してきたのである。この点から見れば、中華文化だけではなく、日本文化にもチャン人の知恵が浸透していったと考えている。
徐福と吉野ヶ里とチャン文化
チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。