長門国大津郡日置(へき)、現在の山口県長門市日置町古市地区に不思議な都市計画があった。
・「秋郊の貴布祢神社御旅所」: 御旅所の塔頂に置かれた鳥は鷲で、その頭は冬至の日の日の出方向に傾け、この軸線上に日置八幡宮、さらに長門深川廃寺が配されている。
・「日時計の街並みの照英」:日置の街は、どこからでも正確な時を知る事ができるよう、街全体を大きな日時計にみたてている(参考)。
古代日置氏族が極めて高度な測量技術と天文学をもって、この街の都市計画に携わっていたことなど、 “太陽の道”を基本にした街づくりであった。そしてまた『日置町史』には、「日置町の条里地割がN4度W、つまり南北の線が西に4度傾いて設計されており、長門市深川の条里とほぼ一致する」(参考)。
日置町古市の中心から北西方向の線に沿って散策してみた。
参考
① 当時、暦の知識など他人、他国に簡単に教えない秘伝であった。6世紀後半から導入した太陰太陽暦も毎年、暦博士を百済から招聘した(参考)。百済が滅んだ7世紀後半からは、暦博士は渡来して日置町に定住したのであろう。
② 日置の中心街は集中しているが、外敵からの防御を必要とする大陸の生活の記憶があるのであろ。平和な稲作地帯では、農作業の利便性から農地に分散した集落を作る。フランスの中世の城塞都市の写真を示すが、日置町に良く似ている。
③ 全国の日置郷
④ 古代日置氏族の集住した地として伝わる日置郷は、『和名抄』には大和国葛上郡、和泉国大鳥郡、伊勢国一志郡など、千葉県から鹿児島県にかけて広く分布している。山口県では周防国佐波郡日置郷(佐波郡徳地町)と長門国大津郡日置荘(長門市日置)の2ヶ所が記載されている。
日置(へき)の語源は古事記では幣伎(へき)、和名抄では比於木(ひおき)とある(長門市日置町歴史資料館より)。
ここ長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を日置荘とし、隆盛していたとある。その基盤となったのは、堀田遺跡から出土された「ふいご口」、鉱滓などから推定されるよう、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながら、日読み(暦作成)をも司ったことによるだろう。八幡人丸神社のある三佐崎山は御陵山ともいい、往古にこの地にあった豪族・日置氏の陵墓として造築されたものと考えられる。
長門市には、鍛冶屋、鑪、火渡、金焼などの鉄冶業関連地名も多く残り、室町初期(1350年頃)には、これら金屋職人をたばねる金屋大工所が瀬戸崎(長門市仙崎)に置かれている。金屋大工所は他に須佐(萩市須佐)・津波木(萩市椿)・厚狭(山陽小野田市)・肥中(下関市豊北町)にも配され、金屋浜町(下関市長府)に惣官所が置かれている。そして これらの地に今も「人丸社」がある(須佐と厚狭では見つけることはできなかった)ように、金屋職人が人丸信仰を持ち込んだのであろう。
日置族は出雲臣族です。このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。従って、日置族は天照大神、応神天皇の子孫ということになります(参考)。すなわち、土師氏と同族で、秦氏の一派と言える。
⑤ となりの人丸神社の祭神、柿本人麻呂の一族、柿本氏は銅の精錬が専門の和邇氏の一派である。すなわち、和邇氏は土師氏(秦氏の一族)とは異なり、海人族安曇氏の系統か!
⑥ 長門国大津郡
10 中国の山東半島の付け根、日照市に太陽信仰の古代遺跡があった(参考)。ここから渡来してきたか!