古代ユダヤ、羌族、弥生人の埋葬形式 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古代、土井ヶ浜の斉系弥生人から古墳時代は石棺墓が主流であった。火葬は8世紀の持統天皇からはじまった。中国の古代の羌族も、古代のユダヤ人も例外的に火葬があるが、石棺墓に埋葬した。

ユダヤ教と日本の神道には穢れの概念があることはよく知られている。ユダヤ教では罪人は火葬にする。チャン族も横死者(事故死者)は火葬とし、穢れ概念があるようだ!


参考

① キリストが生きた時代のヘロデ王の石棺墓が見つかった。(現代のユダヤ教徒は布を巻いて土葬する)

【エルサレム/イスラエル 2007/05/09 AFP】イスラエルのヘブライ大学(Hebrew University)考古学研究所は8日、古代ユダヤのヘロデ王(King Herod、紀元前37-同4年)の墓がヨルダン川西岸のベツレヘ(Bethlehem)近郊の宮殿遺跡ヘロディウム(Herodium)で見つかったと発表した。

1972年から現場付近で発掘を続けてきたヘブライ大のエフド・ネツェル(Ehud Netzer)教授によると、ヘロデ王の石棺と見られる遺物は3週間前に、ヘロディウムの北東斜面で発見された。この斜面の発掘は2006年8月から行われてきた。

ヘロデ王はヘロディウムに埋葬されたと伝えられており、発掘が続けられていたが、決定的な証拠は発見されていなかった。

ネツェル教授は、「(ヘロデ王の墓であることを示す)碑文は発見されていない」とした上で、「発見場所や出土品の性質、文献史料から言っても、これがヘロデ王の墓であることは間違いない」とした。教授によると、発見されたのは高位の人物の石棺にしか用いられない装飾などで、国内での出土例はほとんどないという。

また、石棺が細かい破片として発見されたことから「故意に破壊された」とネツェル教授は分析する。ローマの支配に抵抗したユダヤ人により66-72年の間に破壊されたと見られる。

ネツェル教授は、「ヘロデ王は有名で、新約聖書にもたびたび登場するなどキリスト教徒には特別な意味を持つ人物であり、ヘロディウムはヘロデ王が残した素晴らしい遺跡である」ことから、今回の発見は「非常に重要なもの」と位置づけている。

「ヘロデ大王(Herod the Great)」とも称されるヘロデ王は、紀元前40年頃にローマ帝国により「ユダヤ王」に任命された。エルサレム神殿の大改築を行い、港湾都市カイサリア(Caesaeria)やマサダ(Masada)要塞も建設した。

また、新約聖書のマタイ福音書(Gospel of St Matthew)では、紀元前にベツレヘム(Bethlehem)で生まれたとされるキリスト(Jesus Christ)の生誕を聞いたヘロデは、ユダヤ王の座を奪われることを恐れて2歳以下の男児をすべて殺させたと記されている。
(c)AFP/MENAHEM KAHANA


② 古代ユダヤの葬儀(罪人は火葬)

時の終りに蘇り、永遠の命を得る(参考)

ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」は、神、天使、奇跡、予言など超自然の事柄の宝庫であるが、死後の世界の記載は少ない。予言の書によれば、「人は死後眠りにつくが、時の終りに蘇り、善人は永遠の生命を受け、悪人は常に恥と苦しみを受ける」と記録さ れている。この死後観はキリスト教にも引き継がれていった。しかし、ユダヤ人の底流には、セム族の習俗が残っている。

「創世記」によると、人は罪を犯したが故にエデンの園を追放され、額に汗して働き、ついには塵に帰る運命をもつようになった。死は罰であり、罪のあがないであった。命 は神が与え、死のときも神の定めによった。

人は最期の息を引き取るとき、シェキナー(神の臨在)のビジョンを見る。それからネフェシェ(生命、息)が身体を離れる。その状態を聖書は「銀の糸は切れ、黄金のランプは割れ、水がめは泉で砕け、滑車は井戸で壊れる。その時、塵はもとの土に戻り、生命はそれを下さった神に戻る」(伝道の書)と記述している。魂は3日間、死体のある墓をうろつき、やがて離れていく。

忌中は7日が基準ともっている

古代においては祖先崇拝が行なわれ、死者は祖先たちの墓に埋葬され、そして死者の魂は祖先のもとに帰り一体となった。また死者はシュオル(黄泉の国)で、薄暗い影のような幽霊として存在していた。律法により、また熱い気候のため遺体は布に包まれ、24時間以内に埋葬された。火葬は罪人に対する刑罰として行なわれ、ヒンノムの谷には、罪人と動物の死体を焼き尽くす炎が絶えなかったと記録されている。遺体は友人たちによって担がれ、詩編の句を唱えながら墓に運ばれた。かっては、泣き女、楽士が葬儀には付き物だった。忌中は7日間が基準で、昔は荒布を体に巻いて断食し、胸を叩いたり、灰のなかに座ったり、灰をかぶったりして、悲しみを表現した。

「ヨセフは父の死の為に7日間、葬儀を行なった」(創世記50、10)現在では黒の喪服 を肴、家に留まって「ヨブの書」を読み、弔いの客を迎えて忌中の期間を過ごすのである。また1年間は服喪期間として、音楽や娯楽を遠ざける風習がある。(吉野)


③ 古代羌族の墓制(参考)

古代羌族は石棺墓だが、現在はイ族は火葬(平民は土葬と鳥葬)、チャン族は土葬と水葬(横死者は火葬)。中国の大多数は土葬。

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④ 土井ヶ浜の斉系弥生人、響灘文化圏は石棺墓、大化改新までは巨大古墳に石棺を埋葬した。持統天皇が初めて702年に火葬した。例外は、北九州の弥生時代の玄界灘文化圏は甕棺墓であった。庶民については土葬で、本科的火葬は明治になる。

現代の仏式の葬儀で初七日など7を基準にした儀式を行うが、南伝仏教には無く中国経由の北伝仏教のみとのことで、ユダヤ教の東進と関係を窺われる。