呉系弥生人と越系弥生人 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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有明海から吉野ヶ里に入植し、北九州に広がった呉系弥生人(Y-DNA遺伝子O2b、玄界灘文化圏)は瀬戸内海から近畿地方、ヤマト、濃尾平野と東進したことは容易に理解できる。ただし、倭国大乱を経験して邪馬臺国(斉系弥生人、Y-DNA遺伝子D2、山陰・響灘文化圏、秦氏と同族)に政治統合される(参考)。


一部、呉越同舟で知られている呉人のライバル越人(O2a)は越南、すなわちベトナム辺りを中心に定住したようだが、日本人の中にも若干、含まれている。彼らは日本列島の何処に住んだのであろうか?


福井県から新潟県あたりはコシヒカリを生み出したように米どころであり、ベトナム(越南)の人と同族の越系弥生人達が入植したのではと空想している。新潟県の地名の由来は湿地帯の潟から来ており、田舟に乗り、水田に浸かって、稲を水没させて栽培していた。


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新潟県の田植え(昔)

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新潟県の田植え


さらに、大和を中心とした銅鐸文化圏も越系弥生人の縄張りとの指摘がある。そうだとすると、濃尾平野まで進出する呉系弥生人の拡大を途中で越系弥生人が遮ったことになる。


参考


 水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだのは、長江下流で水田稲作技術を興しながらも黄河系Y-DNA「O3」との中原での勢力争いに負けて拡張する「O3」に長江流域から追い出されたY-DNA「O2a」(Y-DNA「O1a」も含む)から分化したY-DNA「O2b」である。


このY-DNA「O2a」は越民と思われ長江下流域から南北に逃げ、東南アジアに逃げた集団は広範囲に拡がる。その後Y-DNA「O2a」集団は特に越民として現代でも華南やヴェトナムなど東南アジアに多く分布している。


一方北へ逃げた集団は現在の満州付近まで北上したようです。満州を北限としてY-DNA「O2b」の出現頻度が高いことから、満州辺りでY-DNA「O2b」に分化したのではないかと欧米の研究者は考えている。しかし、長江下流域に居住していた頃から越に対応する呉として分化しており呉民集団を形成していたのではないかと考えられます。この方が呉越が激しく対立していた理由が理解し易いです。


日本に漢字が持ち込まれた当時の唐音以外に何故呉音の発音が存在するのかは、渡来した稲作農耕民は呉民だったと考えると納得が出来ます。

呉越が激しく対立していたと言うことは捕虜となった越民Y-DNA「O2a」や更に前に長江河口域から追い出された楚民と思われるY-DNA「O1a」も呉民の中に混じっていたと考えられ、日本列島に少数存在する「O2a」や「O1a」は「O2b」と一緒に渡って来たのかもしれません(参考)


② 福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、弥生系の人骨だと判定されている(参考)


③ 弥生時代後半に前漢が成立し、滅ばされた呉・楚からO系統が日本列島に来た。名古屋でO2b比率が高いのは、濃尾平野を開墾したからだろう(参考)。


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③ 福井県から新潟県あたりを「越(コシ)の国」と呼ぶのは衆知のとおりだが、何故、コシ(高志)のヤマト言葉に越(エツ)と言う漢字を当てはめたかが疑問となる!歴史的にヤマト政権に対し独自な立場をとって来た地域のようだ!

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④-1 大河川の下流部に広がる沖積平野では川の勾配が緩くなり、上流からの水が集まってくるので排水が不可欠だ。

18万haの面積を誇る新潟平野は、信濃川、阿賀野川などの大河川と支川が現在の海岸砂丘帯と元の陸地との間に土砂を堆積してできた。氾濫で生み出された自然堤防が緩い凹地を囲む。この低地は軟弱な泥炭地で、目に見える大小の潟湖が残るほか、すぐ水に浸かり溜まる湿地は「地図にない湖」といわれた。

農家はこの低湿地を沃土に変えていった。生い茂るマコモの枯れワラの上に潟湖の底土を載せて田んぼにするのが伝統的なやり方だ。近世以降には新田開発が本格化した。享保期に行われた北部の紫雲寺潟をはじめ、流入する河川の流れが分離され、砂丘を割る放水路が開削されて潟湖が干拓された。それでもできた新田は、腰や胸までつかって田植えや稲刈りをする「腰切田」や「胸切田」だった。

明治以降、信濃川や阿賀野川の改修工事が行われて初めて平野全体の抜本的な対策がとられることになり、低湿な水田から排水が行われるようになった。蒸気機関のポンプがいち早く導入されたのもこの地である。排水は大きな範囲で行うことが効果的だが同時に利害調整も難しくなるので戦後まで遅れた地域があるが、現在では全域にわたって排水が完全に制御されている。司馬遼太郎は、一つの大きな潟、亀田郷の苦闘の様子を「潟のみち」(『街道をゆく』9)で描く。

排水改良に加え、区画整理と用排水施設の整備、暗渠排水などが徹底的に行われた結果、ぬかるみを田舟でしか移動できなかった湛水田は、コシヒカリなど良質米を産する広い区画の美田に生まれ変わり、さらには人が安心して住める市街地もできた(参考)。


④-2 石川県、河北潟など

湖沼地帯を干拓して水田にしている。

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⑤ こちらはベトナム南部のメコンデルタです。メコン川が運ぶ大量の土砂と水が肥沃な土地を生み出し、広い水田地帯が形づくられました。この地域でも水路は網の目のように張り巡らされています。気候も温暖で米作りには最適です。

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メコンなど大河のデルタでは、昔から浮き稲が栽培されてきました。浮き稲は毎年、洪水が繰り返されるこのような地域に適した種類の稲で、水かさが増えるとともに茎をのばし、時には5メートル以上になることもあります。そのため水に没することがありません。しかし、収穫量はあまり多くありません。昔からこの地の人々の食を支えてきた浮き稲も、現在はわずかに栽培されるだけになっています。

このように、バリ島でも、ベトナムのメコンデルタでも、複雑な潅漑技術を伴う棚田や、大河川のデルタに適した浮き稲栽培など、昔からその土地の自然条件に合わせた工夫をしてきました。高い生産力を持つ水田稲作地域は、多くの人口を養うことができます。その結果、人口密度の高い地域が生まれました。かつては、そうした地域を支配することが直接国の力につながっていました(
参考)。


⑥ 中国浙江省の河姆渡遺跡、呉越が隣り合わせていた

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呉越同舟の舞台、稲作のルーツ