下関市立考古博物館の発掘調査の結果概要を抜粋する。秋根遺跡の場所は昭和40年代の山陽新幹線新下関駅開業と駅前開発で失った条里制地割の水田の事前発掘調査で明らかになったもので、昭和52年発行の報告書「秋根遺跡」、下関市立考古博物館所蔵を許可を得て図面や写真をコピーした(参考)。
発掘調査は継続しており、平成24年当時の現地説明会の様子。新下関駅近く。
新下関駅開業前、まだ、山陽新幹線も開通する前の写真で、中国自動車道は無く、東西南北に走る県道もまだ拡幅されていない。
綾羅木川の北岸は未だに水田のまま、南を東西に流れる支流の砂子多川との間が開発されて変貌している。
秋根の旧街並み、新幹線の東側のマンション群と民家が混在している。この民家群の中央あたりを東西に横切る道が大幅に拡幅されて、新幹線と交差している。この交点に新下関駅前ロータリーができた。この旧街並みが、既に条里制地割に従っている。北端あたりに仏教寺院が昔のままに並んでいる。
この道路な東西を走る路地、旧水田の条里制地割の面影を保っている。
以下、報告書から調査対象範囲の建物柱穴の遺構の配置図面をコピーした。
調査対象範囲の北端部あたり
調査対象範囲の中央部あたり、写真技術の拙さにより、上の写真と重なりがあります。
調査対象範囲の南端部あたり
報告書の総括
当該遺跡から縄文時代ころの遺物もあるが、弥生時代から発展した。しかし、7、8世紀の遺構が見つかっていないが、国司の邸宅、豊浦郡家、額田部氏あたりを遺跡の首長として考えている。北九州出土の既知の遺物より早い時期のものもある。
感想
長府の長門国府の存在が総括の邪魔をしている。
長門国府の遺跡については、奈良時代以降の遺跡しか見つかっておらず。二つの遺跡が連続し、秋根遺跡の終焉が長門国府遺跡の開始と辻褄が合うことを指摘したい(参考)。
また、縄文時代からの遺跡もあり、海人族安曇氏の存在が伺われる。すなわち、当該遺跡は弥生時代としては海人族安曇氏と、追って渡来する斉系弥生人ゆかりの東鯷国(イツツヒコ王国)が相当すると考えられ、稗田地蔵堂遺跡の蓋弓帽を思い出す。古墳時代からは仲哀天皇、神功皇后や応神天皇の穴門の豊浦宮を連想し、住吉神社との関係が素直に理解できる。これが646年の大化改新以降に長府に移行する(参考)。
長府の忌宮神社に、境内地は元々、武内宿禰(安曇氏)の子孫の土地であったと言う系図があった。下関市の縄文時代からの主要な住民は海人族安曇氏であり、彼らが日本の地主であったことを拙著でものべている。
追加
秋根八幡宮と秋根記念公園にあった二つの古墳