どうも、下関市菊川町にある田部地区が相当しそうである。
参考
① 額田部氏について
続日本紀 神護景雲元年 (767年)4月29日 条、長門国豊浦団毅外正七位上額田部直塞守 銭百万稲一万束を献じ外従五位上を授け豊浦郡大領に任ず、とある。この額田部氏は長門国豊浦郡に所領のある在地の豪族と目されており、銭百万、稲一万束を朝廷に献上できる豊かな豪族であった。
額田部広麻呂 生年:生没年不詳、8世紀中ごろの長門国豊浦郡(山口県豊浦郡)の郡司。天平10(738)年耽羅(たむらとも。古代済州島に成立した国)島人を部領して上京した(『周防国正税帳』)。藤原広嗣の(740)の際には,官軍の精兵40人を率いて九州に渡り、乱後、外正八位上から外従五位下に昇叙された。
豊かな経済力をもつ額田部氏の所在地すなわち額田部郷は、現在の下関市の長府以東説、楠乃説、豊浦町大字宇賀説がある。ここで響灘に面した豊浦町宇賀と小串の一帯を郷の範囲とする説(日本地理志科・防長地名淵鑑・山口県文化史)は、広い稲作水田など経済力を無視して、「ぬか」 と「うか」 の音が類似していることを根拠としている。すなわち、地名として一致するところは未だ発見されていない(参考)。
長門国は山陽道西端に位置する中国(延喜式)。律令制以前、その南西地方の下関海峡付近を穴門国(あなとのくに)と呼び、穴門国造が支配した。長門の国名は665年(天智4)が初見で、そのころから国司が管治する国となった。《和名抄》は〈ナカト〉と訓じ、厚狭(あつさ)、豊浦(とよら)、美祢(みね)、大津、阿武(あむ)の5郡である。この内、穴門国に属したところは豊浦あたり、すなわち現在の下関市(江戸時代の長府藩)になろう。
ここで、気になったのは菊川町の田部と言う地名である。この地名は和名抄にも記載され、菊川町の名前より古いものであった。律令制度では田部とは朝廷直轄の屯倉のことであり、菊川町に屯倉があったか、朝廷に献上する稲を栽培した所と思われる。すなわち、額田部とは田部の一種であろうから、菊川町に額田部氏の所領があったと思われる。
② 菊川町について
菊川(きくがわ、山口県の旧町名、コトバンクより)、山口県西部、豊浦(とようら)郡にあった旧町名。現在は下関市の中東部を占める地域。旧菊川町は、1955年(昭和30)菊川、豊東(とよひがし)の2村が合併して町制施行。2005年(平成17)下関市と合併した。木屋(こや)川と支流田部(たべ)川(菊川)の合流部に開けた田部盆地を占める水田農村地域。国道491号が通じ、地域の近くには中国自動車道小月(おづき)インターチェンジがある。開発は古く、『和名抄(わみょうしょう)』の田部郷の地。下関市菊川総合支所のある田部市(いち)は近世の萩(はぎ)―赤間関(あかまがせき)街道に沿う市場町として発達。北境の華山(げさん)(713メートル)は豊田県立自然公園の一部。米作を中心に養鶏などが行われている。[三浦 肇]『『菊川町史(1970・菊川町)』
③ 白山神社について
ところで、下関市では菊川町にのみ存在する白山神社は菊理媛命と伊邪那岐命と伊邪那美命を祀り、縁結びと水田を潤す神様です。加賀国の白山の神で、全国の白山系神社の祭神。 ただし白山神といえば、通常は菊理媛命のことだが、神社によっては伊邪那岐命と伊邪那美命とする場合などがある。
この菊理媛命から菊川町の名前になったのか興味深い?
日本書紀によると伊邪那美命が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊邪那岐命伊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊邪那岐命は逃げ出してしまい、怒った伊邪那美命は夫の後を追います。黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛命で、伊邪那岐命・伊邪那美命二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読命(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。
⑴ 白山神社1
⑶ 白山宮
④ 菊川町の田部盆地は正に条里制地割の水田であった(参考)
民家の並びも一致しており、圃場整備事業の影響は河川改修くらいであった。
条坊制的な家屋の並びになっている。農地や農家の並びは、一度固まると二度と動かせない性質(所有者の保守性、圃場整備事業の困難性の一因)などから、弥生時代から変化していないと言える。