弥生人たちの故郷、すなわち、呉、越、燕、斉などの国は秦の始皇帝が中国を統一する前に滅亡した(参考)。従って、彼らが日本列島に渡来した時点では、秦の始皇帝が定めた篆書などの漢字の書体は存在していなかった。篆書より古い文字が斉系弥生人と一緒に渡来して、神社に神代文字として残った可能性が考えられる。
2から3世紀ころの倭国が朝貢した漢や邪馬臺国の魏では漢字があり、文通が普通にあり、下賜された印や鏡に漢字が書かれていた。本格的に漢字が使われるのは、応神天皇が秦氏を受け入れる4世紀末以降であろう!仏教教典など書物として大量に情報が入るのは百済国からであり6世紀中頃(参考)であり、日本書紀や古事記など日本人自ら書物を著すのは、百済国が滅亡して百済人を受け入れた7世紀後半からであろう(参考)。
参考
①-1 秦の始皇帝が漢字を統一する前の文字(参考)
①-2 秦の始皇帝が定めた漢字の書体、篆書(参考)