住吉神社、下関市の廃仏毀釈前について残された遺物や情報を得ることは出来なかった、面影らしきものを探って見た。
境外の東に住吉公園と呼ばれる広場があるが、これが神宮寺の境内か?!
住吉公園広場と鳥居
住吉公園広場
住吉公園広場と神田の間の池
また、現在の境内に鐘楼が残っていたり、朱塗りの拝殿の背後の本殿の唐門と透塀が寺院建築の様相を残している位であった。
残念なことであるが明治になって大宮司職が世襲では無くなり、明治新政府に不都合な情報が相当隠されたと思われる。また、多くの神社が神社本庁の傘下にあり、情報統制と言うか記紀の記述に合わせた由緒作りがなされた可能性がある。
ちなみに、住吉神社の主祭神は住吉三神であるが、さらに応神天皇、武内宿禰、神功皇后を筑紫の宇美八幡宮から勧進したとある。宇美八幡宮の創建は住吉神社や宇佐神宮より遅く、奇妙である(参考)。さらに奇妙なことに、住吉三神が左端に、武内宿禰が中央に祀られていることである(参考)。
江戸時代までは布刈(めかり)明神と呼ばれていた(参考)。
参考
① 住吉神社、下関市の現実
本殿は檜皮葺・九間社流造で、慶安三年(1370)大内弘世が再建したものである。室町初期の代表的な神社建築として国宝の指定を受けている。その構造は、横に長い一棟に五殿の神座を設け、それぞれに千鳥破風をつけ、五殿の間に合の間を設け、流造と春日造の折衷式となっている。また拝殿は、天文八年(1539)毛利元就が寄進したものである。
鐘楼
住吉神社の神主職は、穴門直践立の子孫が代々奉仕してきた。践立より十代の真山のとき賀田直の姓を賜り、 宮成に至って山田大夫を称し、以後、山田大宮司として神主職を世襲し明治維新を迎えた。維新の際、 摂津の住吉社の津守家が華族に列っせられたが、山田大宮司家は士族の扱いにとどまった。さらに、世襲を改められ、 広く人材登用ということになり、住吉神社大宮司の世襲制は終わりをつげた(参考)。
② 住吉神社、福岡市の神宮寺の本尊
この薬師如来は住吉神社の神宮寺(じんぐうじ)(神社に付属して営まれた寺院)である真言宗松華山円福寺から廃仏毀釈のおりに移されてきたといわれています(参考)。