福岡県古賀市の船原古墳の被葬者は福津市の宮地嶽古墳の被葬者と同族で、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳に次いでガラス装飾馬具が出土した。
斑鳩町と言えば、聖徳太子の法隆寺がある。太子の母方の外戚、蘇我氏は海人族安曇氏の長、武内宿禰の後裔であり、藤ノ木古墳の被葬者も一族であろう。また、海人族安曇氏は福岡県の志賀島、古賀市、福津市あたりを出身としており、船原古墳や宮地嶽古墳の被葬者と同族と推定される。
① 国内2例目、ガラス装飾馬具 福岡・古賀市の船原古墳
船原古墳(ふなばるこふん)は、正式には船原古墳群3号墳。当時の周辺の首長の墓と考えられています。横穴式石室はベンガラ(赤色の顔料)で彩色した巨石を用いた装飾古墳でした。盗掘を受けたため出土品は少なかったのですが、金銅製の装飾品が発見され、葬られた人物の地位の高さがうかがい知れます。
今回の再調査で、前方後円墳と判明し、大和政権との関係が大きくクローズアップされてきます。大和政権に従属していた、権力者の可能性が出てきました。
ガラス装飾が施された辻金具3点(白い球面がガラス)。下は九州歴史資料館による復元模型=28日、福岡県古賀市
福岡県古賀市教育委員会は28日、古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)の船原(ふなばる)古墳・埋納坑(まいのうこう)(同市谷山)から出土した金銅製馬具のうち、9点にガラスの装飾が施されていたと発表した。ガラス装飾の馬具が見つかったのは奈良県・藤ノ木古墳に次ぎ国内2例目。市教委は「被葬者が有力な豪族であることがさらに確実になった」と評価している。
市教委によると、馬の頭部の革ベルトが交わる箇所に取り付ける辻金具8点と、くらの後ろ側に付ける雲珠(うず)1点。出土時に風化で白化していた中央のドーム状(直径4・5センチ)の表面について、九州歴史資料館(福岡県小郡市)が蛍光エックス線で材質を分析したところ、色を付けるために鉛を混ぜた「鉛ガラス」であることが判明したという。ガラスは補強のため銅で裏打ちされ、金銅製の本体に取り付けられていた。
当時のガラス色は不明だが、古賀市に隣接する同県福津市の宮地嶽古墳から板状の鉛ガラスが見つかったほか、同時期の国内の鉛ガラス製品の出土例を踏まえ、同館は緑色の可能性が高いとみている。
朝鮮半島からはガラス装飾された新羅時代の製品が多数見つかっている。桃崎祐輔・福岡大教授(考古学)は「船原古墳の埋納坑からは国産と舶来の両方の遺物が出土している。今回の9点は新羅の流れをくみ、新羅が日本向けに特別仕様で作った可能性もある」と話している。
=2016/01/29付 西日本新聞朝刊=
②-1 船原古墳
出土した馬具の中で九州歴史資料館が復元した馬の背につける歩揺付き金具と呼ばれる物(参考)
②-2 船原古墳は前方後円墳(参考)
福岡県の古賀市教育委員会は2015年2月20日、同市の古墳時代後期(6世紀末から7世紀初め)の船原古墳が墳丘長42メートル以上の前方後円墳であることが明らかになったと発表しました。この古墳では、全国で類例のない金銅製馬具など200点以上の遺物が埋納坑から出土しており、これまで直径約20メートルの円墳とされていましたが、遺物の質、量と古墳の規模が釣り合わず、市教委が2014年5月から古墳を再調査していました。西日本新聞が報じています。画像は船原古墳出土物「金銅製歩揺付飾金具」(出典:古賀市公式サイト)
船原古墳(ふなばるこふん)は、正式には船原古墳群3号墳。当時の周辺の首長の墓と考えられています。横穴式石室はベンガラ(赤色の顔料)で彩色した巨石を用いた装飾古墳でした。盗掘を受けたため出土品は少なかったのですが、金銅製の装飾品が発見され、葬られた人物の地位の高さがうかがい知れます。
今回の再調査で、前方後円墳と判明し、大和政権との関係が大きくクローズアップされてきます。大和政権に従属していた、権力者の可能性が出てきました。
③ 福津市の宮地嶽古墳の被葬者と同族であった(参考)
④ 蘇我氏や葛城氏は宮地嶽神社を根拠とする海人族安曇氏の一族だった(参考)
⑤ 武内宿禰の後裔(倭の五王、葛城氏か)が沖ノ島祭祀を司った(参考)
⑥ 蘇我氏は天皇家だった(参考)
⑦ 武内宿禰は天皇だった(参考)