蘇我氏、葛城氏、すなわち海人族安曇氏の本拠地は宮地嶽神社であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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日本国の成立は701年の大宝律令発布からで、以前は倭国であった。

この切り替わりは蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(645年)から始まるとしていたが、この時期についての日本書紀の記述に不自然さがあり、九州王朝論(トンデモ説)者の研究対象となっている。彼らは二中暦と言う天皇家以外が使用していた私年号を物差しにして、この不自然さを研究している(参考)。

実は、蘇我氏、さらに遡って葛城氏は武内宿禰をルーツとする海人族安曇氏の一派であり、北部九州の響灘、玄界灘あたりから朝鮮半島、中国大陸にわたる漁撈民として活躍し、奈良のヤマト政権では女帝を輩出して牛耳っていた。まさに蘇我王朝であり、彼ら独自の年号(二中暦)を持っていた(参考)。

以下の参考文献が正しいなら、彼らは筑紫本宮において大宰帥、蘇我臣日向をつとめていたとか!筑紫の日向は宮地嶽神社であるから(参考)、ここが筑紫本宮であった。そして、ここのトップが大宰帥であった。


参考

① 九州王朝論(トンデモ説、参考)ですが、色々、重要な情報をもたらしてくれる:

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② 宗像大社を取り巻く漁港は宮地嶽神社の氏子達、すなわち海人族安曇氏の漁師の町であった(参考)


③ 九州王朝そのものは存在せず、蘇我氏が九州一円を支配していたと考えるのが正しい(参考)




⑤ 九州王朝はゾンビであり、無かった(参考)、奴国が倭国を代表していたのは倭国大乱まてであり漢及び後漢に朝貢していた。


⑥ 大宰府、大野城そして基肄城などは蘇我氏が計画した未完成の都と山城だった(参考)


⑦ 古賀市船原古墳から福津市の宮地嶽神社周辺の豪族と並ぶ出土品があった。すなわち、古賀市あたりも海人族安曇氏ゆかりの豪族がいた。また、筑紫君も海人族安曇氏の一族だった(参考)。

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⑧ 東日本まで進出していた(参考)


⑨ 志賀島から海の中道、新宮、福津市あたりが海人族安曇氏の故郷で本拠地(参考)