古代日本人は緑が少ない禿山の風景を見ていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古代、古墳時代から古墳、寺社、宮殿、民間の建設、燃料などで森林は伐採され、禿山の風景であったようだ!

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藤原京のイメージ図の中の緑の山々は無かった

遷都が繰り返された理由に、森林資源の枯渇による洪水・土砂災害とか、水資源の枯渇問題があったかも知れない。藤原京の場合、北の内裏の方が飛鳥川の下流にあたり、洪水災害の他、廃水の放流に困難があったと言われている。

ところで、島根県安来市あたりから米子市の北の弓ヶ浜は、たたら製鉄による禿山の土砂が溜まったものと云われる。また、神戸の六甲山は明治時代以降に植林され、美しい森林公園となった。


参考

① 古代:都周辺の森林の大口径樹は、伐りつくされていた(参考)

縄文時代は環境調和的な生産活動でしたが、古代になると状況は一変する。記紀や万葉集などの記述を調べた有岡利幸氏によると、
《古事記下巻 雄略天皇記》
・雄略天皇が460年頃に葛城山に行幸したとき、周辺の山は樹木のない状態。
《飛鳥時代》
・当時の日本の中心地周辺には、巨大建築用の大径木はすでになく、近隣諸国の山から調達する状況にあった。
・特に、奈良盆地南部の飛鳥は、宮殿・寺院・豪族の屋敷・民家などの建築資材、燃料・刈敷などが飛鳥川流域全体から採取されていたため、水源の南淵山や細川山の一体は禿山化していて、飛鳥川は暴れ川であった。
《日本書紀 巻29 天武天皇の勅令 天武5年(676年)が最初の伐採禁止令》
・「南淵山、細川山は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野のもとから禁制のところは勝手に切ったり焼いたりしてはならぬ。」と、一体の禁伐や草木の保護を命じている。

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▲古代における森林景観のイメージ

飛鳥地方はかなり早くから農業生産に着手して、刈敷や燃料の利用圧力も森林に働き、建築資材の調達と相俟って山は禿山と化し、土砂流出が激しいので川は暴れて天井川となっていたようである。


② 飛鳥地方の航空写真

昭和50年頃までは森林の伐採・植林の時期で土が見えていた。以降、高度成長時代、輸入材に圧倒されて国内材の需要が減って、山地に緑が回復した。しかし、間伐などが為されておらず、森林の育成にはなっていない。

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昭和50年

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平成28年


③ 実際の藤原京は、地勢が悪かった(参考)

「天子南面」の思想があるが、天皇の立つところ(大極殿)が、南面よりも低地にあったのである。つまり、天皇が立つところが、一般臣下たちの地点より低い地点であったわけで、建物を高くしたところで、臣下たちの生活排水が天皇の建物近くに流れ込んでくるという最悪の状況に変わりはなかったであろう。

藤原京の排水装置(下水)は、「飛鳥川」が担った。「飛鳥川」は、飛鳥の南後背の高取山北東麓を源流とし、飛鳥を抜けて藤原京を斜めに北に流れる。小さな川であり、たびたび氾濫したようだが(古今集歌)、溢れた水は、ちょうど大極殿あたりに滞留したのではないか。今でも、大極殿跡あたりは、少しの雨でも水が溜まるのである。


④ 島根県安来市(参考)

❶景観の特徴

過去(江戸時代中期)
    はげ山
現在
    天然更新による広葉樹林
    戦後の植林による針葉樹林
    手入れがされなくなった事による竹林の侵食

たたら製鉄がおこなわれていた当時ははげ山であったが現在では戦後の造林により植生回復した。そのため戦後造林した針葉樹、天然更新した広葉樹が存在し、そのなかで手入れされなかったことによる竹林の侵食が見られるといった森林景観である。林業技術センターの方の話では森林内に入れば、たたら製鉄の鉄穴流しが行われた森林は他のところと違うことがわかるということ。鉄穴流しの行われた山は形がいびつになっているそうである。しかし鉄穴流しが行われた山は比較的樹木の生長が良い土地(地力が大きい)であったので、植生回復することができた。というわけで現在では樹木が育っているため遠距離から見てもそのことを確認することはできない。

景観を支えてきた背景

この地域は古来よりたたら製鉄の栄えたところで、たたら製鉄では砂鉄を原料とし、木炭を大量に使った。たたら製鉄が盛んであった江戸時代後期には年間60回操業が行われたが、1箇所の鈩で使う炭は810tであり、それは山林60ha分(甲子園16個分)であった。また江戸時代中期から後期にかけて鉄穴流しという砂鉄の採取方法が始まり、山肌を切り崩し水路を作って流した。この二つの点からたたら製鉄業には広大な森林を必要とした。森林の側から見ると、たたら製鉄を行うには木炭を得るため大量の木材伐採、そして砂鉄を採取するのに山を利用したため山々を荒廃させた。そのため当時ははげ山化、そして山は荒廃していたようである。

昔はげ山であったような場所は戦後に造林したようである。しかしこの造林は広島県沿岸部のようなはげ山復旧事業のようにはげ山対策をした植林方法ではなく、通常通りの植林を行った。そして現在はげ山はほとんど存在せず、植林により天然更新に近い形で復旧したと考えられる。そのため竹林も多く見ることができる。比較的簡単に森林が回復した背景として、この地域は広島県とは異なり、鉄穴流しを行ったような場所は木の生長の良い所であったからである。しかし鉄穴流しを行っていた場所は遠くからでは木に覆われていて確認することはできないが、森林内に入って見ると、通常の侵食とは違う人為的な侵食が存在し、いびつな地形(不自然な形)をしているため森林は回復したものの地形は古く昔とは変わっている。そのほか鉄穴流しの影響として残丘が残っている所もある。また鉄穴流しの跡地は棚田として利用している土地も多い。


⑤ 六甲山は禿山だった(参考)

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山腹工が始まったころ(明治時代)の神戸六甲山地の再度山(ふたたびさん)

山の木を切りすぎて、はげ山になり、土砂災害がたびたび起きていたため山腹工を始めました。


⑥ 北九州は弥生時代から禿山であった(参考)


⑦ 山水画の絵(参考)


滋賀県の田上山は日本には珍しい完全なはげ山である。 

古代の都や大寺院建築でここの木材を利用した。太古の昔は檜の枯木が鬱蒼と生い茂っていたが、藤原京造営やその後の平城京遷都や寺院の造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから田上山のヒノキを数万本伐採して用いたとされている。このため田上山ははげ山となり、雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきた。

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鎌倉再建時の東大寺大仏殿は、長門や周防の国から伐採された檜の巨材を使っている