穴戸国には製鉄、製銅の産業があった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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穴戸国のあった下関市の綾羅木、秋根、勝山、勝谷地域は砂鉄を使った製鉄がかつてあったことが河童伝説から伺える。また、付近には銅山もあり、日本最古の鋳銭所があった。

製鉄や製銅には大量の木炭を消費するが、木炭の原料となる木材が周囲の山々から切り出され、花崗岩の山である四王司山、勝山、青山などは禿山で土砂崩れを起こす荒ぶる山々であったであろうことが思い浮かぶ。


参考

① 砂子多の河童(参考)

むかしむかし、日本中のあちこちに河童が住んでおった頃、山口の勝山の沼にもやっぱり河童が住んでおった。勝山の河童は、畑は荒すわ、家畜に悪戯はするわ、村人に相撲を挑んでは持ち物を巻き上げるわ、ろくな事をしておらんかった。

そんなある日のこと、勝山の勝谷に住む五作爺さんが、牛を洗うために砂子多川を訪れた。するとあの河童が牛の尻尾を杭に縛りつけ悪戯をしたそうな。爺さんは驚いて暴れる牛をなんとかなだめ、その後、岸に上がって酒を飲んで一休みした。

それを見ていた河童は酒に興味津津。爺さんの目を盗んで瓢箪の中の酒をごくんごくんと飲んだ。この様子を窺っていた爺さん、すばやく河童に近付き、頭の皿の水を掻き出して河童を縛りあげてしもうた。

爺さんは、捕えた河童を杭に縛りつけて懲らしめることにした。その日一日、カンカン照りの日差しの中、河童は悪態をついて騒いでおったが、日が暮れる頃にはぐったりしてしもうたそうな。

五作爺さんの孫娘のお小夜は河童が可哀そうになって、河童の縄を解いてやるよう爺さんに頼むのじゃった。爺さんは何事か考えておったが、その日の夜遅く、河童の縄を切ってやった。そうして、河童にもう二度と人間に悪さはしないという証拠を見せることと、田んぼの草取りを手伝うことを言いつけた。

翌日、河童は頭の皿に水を入れてもろうて、歌を歌いながら器用に田んぼの草取りをした。そうして夕方になると、爺さんは河童を砂子多川に連れて行った。すると河童は「川の中で一番大きな石を砂子多川のたもとに置き、その石が砂粒になるまで、もう二度と河童一族はこの土地の人間に悪さをしません。」と言うて沼へ帰って行ったそうな。

それからしばらくして、河童が約束した通り、砂子田川の橋のたもとには大きな石が置いてあった。それから何年も何年も経って、今ではあんまり河童の話をする者もおらんようになって、あの河童達がどこへ行ったものやら、それは誰にも分からんということじゃ。

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②-1 古代製鉄物語 浅井壮一郎 著(参考)

現代のような高温の製鉄炉や、高度な鉱山技術がなかった時代に、製鉄はどのように行われていたのでしょうか。『古代製鉄物語』は、鉄鉱石や砂鉄が利用される以前、古代の製鉄は水辺で採れる鉄(湖沼鉄)が原料だったとする説を展開しています。

地中の鉄分が人型に固まった、天然記念物の高師小僧は、湿地帯の植物の根元に鉄が吸着して出来たものです。日本列島は古来、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)と称されてきました。葦が生い茂る湿地帯は、豊富な水酸化鉄が得られたというのです。浅井氏は、神武天皇の東征ルートを、鉄を産出する湖沼地を求めた旅であったと考えています。

水辺で鉄の採集に従事していたのが、河童と呼ばれる人々でした。河童のことをヒョウスベ(兵主部)ともいいます。ヒョウスベの語源となった兵主神は、支那の武神・製鉄神です。
穴師坐兵主神社(奈良県桜井市)の摂社として相撲神社があり、野見宿禰を祀っています。野見宿禰は土師氏の祖です。高温技術を持つ土師氏は、製鉄にも関わりがあったと浅井氏は考えます。そういえば、河童は相撲が得意でしたね。古代製鉄の原料が湖沼鉄であるならば、河童=製鉄民説は信憑性を帯びてきます。


②-2 河童と鍛冶(参考)

河童と鍛冶、つまり金属との関係は意外と密接なのだ。青森県八戸市には、以下のような話が伝えられている。

「陸奥八戸の沼館にある八太郎沼と鍛冶丁堤とに昔河童が住んでいた。村人が八太郎沼の脇を通っていると、河童が現れて、お前はどこに行くのか、と聞く。吹上へ行く、と言うと、そんなら鍛冶丁堤の河童に、この書状を渡してくれ、と言って手紙を託される。そこへ行く途中で知っている者に会って、どこへ行くところだ、と聞かれたので、河童の手紙を持って鍛冶丁堤まで行く、と答えると、その者は大変珍しがって、河童の手紙というものはどんなものだか見せてくれ、と言うので見せてやった。手紙には、この男の尻は紫尻だからお前が取って食え、と書かれてあったので、二人ともたまげてしまった。相手の男は、そんなら別の手紙を書いてやろう、と言って、この男に宝物を渡せ、と書き換える。その手紙を持って行き、鍛冶丁堤の河童に差し出す。するとそれを読むなり、宝物は一代の物か、それとも二代三代の物か、と聞くので、一代の物、と答え、一代の宝物を授けられた。男はその宝物のお陰でみるみる長者になり、開田して米作りに励んだ。収穫時には米糠がまるで山のように積もるほどであった。だが男の死と共に家運が衰え、それきり滅亡してしまったと言う。長者屋敷と言うところには長者山や糠塚がある。」(『ふるさとの伝説』 八戸市)

相当に示唆的な話である。村人が向うのが「吹上」で、おそらく、その極近くに「鍛冶丁堤」があり、村人が河童から問われて「一代の物」とこたえ、その「宝物」によって「米糠が山のように」とれ、大金持ちになったが、やがてその村人が死ぬと、家運が衰え、一気に滅亡してしまったというのだ。

「吹上」というのは、おそらくタタラ場のことであり、したがって「鍛冶丁堤」が近くにあるのは当然で、そこで、この村人は河童から「一代の宝物」、つまりタタラ製鉄の秘伝を教わり、それによって、「米糠」、つまり砂鉄から鉄を大量に生産することができた、ということであろう。


③ 花崗岩と砂鉄(wikiより)

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④ 四王司山は花崗岩の山で流出した真砂土は砂子多川から綾羅木川に流れ込む(参考)


⑤ 付近には銅山もあり、日本最古の鋳銭所があった(参考)


⑥ 下関市大字福江の林地区の製鉄伝説(参考)


⑦ 製鉄の民(鍛冶・タタラ職人達)は日本を守る兵士でもあったと思われる(参考)