長府、覚苑寺
銅の採掘が史料上に現れるのは、『続日本紀』によると、文武2年(698)周防国によって銅鉱が、安芸・長門二国から金青・緑青が献上されている。和銅元年(708)に日本における本格的な銭貨である和銅開珎の鋳造が始まると、各地に鋳銭司が設置され、天平年間初頭には四等官制を取る組織として、長門国鋳銭司が成立している。長府の覚苑寺は長門鋳銭所があった場所、遅くとも730年には操業していた。秋吉台の近くの長登銅山は、8世紀から昭和30年代まで操業されていた、日本における最も古い銅山採掘跡である。
注: 古代採鉱民族の構成、井上孝夫を参照
2 吉見、永田の製塩
入浜式塩田としては日本最古であり、永田神社の北の水田が中世の製塩跡と言われているが、神社創建が779年とあるから、それ以前の古代から操業されていたと思われ塩田として日本最古級であろう。神功皇后の時代は逆見の海の塩地と云われた。奈良時代以前の製塩は製塩土器によるが、北部北九州を含め、この辺りが中心であった。
3 長府、蚕種渡来之地
秦の始皇11世の子孫功満(こま)王が来朝帰化し、ここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと云われている。
4 奈良の東大寺と大仏
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始されたが、宇佐八幡宮から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣を出した。しかし、実際の対応は豊前国では無かった。銅は長門国の長登銅山産を使用した。また、平安時代末期、東大寺が消失した際、その再建にあたっては周防国が御造料地と定められた。重源上人は文治元年(1185)に大仏を改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手した。
5 宇佐神宮より古く、格上の神社の存在
秦氏の氏神は八幡大神(応神天皇、神功皇后、比売大神)であるが、穴門国には豊浦宮(仲哀天皇)、忌宮(神功皇后)、豊明宮(応神天皇)と言う八幡宮より古く、格上の宮が当時あり、さらに住吉神社が近くにある。住吉神社の境外摂社に厳島社もある。
6 尊王攘夷思想
秦氏の後、秦氏の末裔として跡を継いだ土師氏又は同族の菅原氏が支配し、土師氏の末裔である毛利氏につながり、秦王国の伝統は今日に至ることになる。尊王攘夷思想は秦王国の責任として2000年近く守られ、秦氏の子孫である百姓が八幡大神、菅原大神を旗印とした民兵(諸隊)を組織して維新を成し遂げたのである。
7 高天原
8 初期の秦王国すなわち海人族安曇氏(秦氏)の王国の首都が下関にあった。
9 銅の精錬が稼業の柿本人麻呂の一族が山口県に多く居た。
参考
(2015.9.18現在の研究では、下関の響灘沿岸、綾羅木あたり)
コメント
秦王国は周防灘を挟んで防長二州と豊国辺りで、秦王国の中心は応神天皇、神功皇后とともに東遷し、豊前国に残った氏族が宇佐神宮を祀った。現在でも、方言が極めて似ている。
当時の周防灘の海上交通について、周芳国沙婆津から穴門国豊浦津の航路に豊前国の分間浦(中津)が挟まれることがあり、人的交流が濃密であった。これは潮流と風向きによって流される為で、遣新羅使ルートの例がある。同様に菅原道真公が防府から長府に水行する途中、椎田を通過していた。