川棚温泉の今昔 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

今の川棚温泉界隈

{9A9DF291-2B81-4270-9BE1-0831F5FB5DDC}
〒759-6301 山口県下関市豊浦町大字川棚
 {CA28AFBB-7F13-4259-921A-E660756CC305}
川棚温泉口

{70BD5B90-F8B5-4F57-BBE4-7A78836E0C0F}

{B7FF31EE-684D-4DF9-BBF7-CC71D5702C1F}

{FA84F7EE-89FE-4515-AFE7-C63C44509B38}

{51E20EDA-31A5-421D-BA71-3A53AAEF241C}

{7189077C-9E87-4931-BDFF-9B453A93836C}
公衆温泉、ぴーすふる青龍泉

{5DDEA0E6-1B48-4738-AA36-399834E3CE9A}
右手がコルトーホール、左手がぴーすふる青龍泉

{437F6D10-2258-4B47-B18C-80BE60141B2A}
妙青寺

{8F595397-2286-495D-AF96-E5169C20AE10}
烏山民俗資料館、コルトーホール

{CFF27F07-4A9B-443E-9E95-09604271B1DB}

{515F00D5-F684-43C0-9E9B-37852D79EE05}

{F6FC92DC-13CF-4641-B7DE-DF9DB1CA3C85}

{564B9592-04B8-49EC-A4C3-E6C6638A649F}

{E29B877D-DFFA-479F-A81F-48ACB9C6F0AF}


昔の川棚温泉

{050A3D2D-76BF-4F86-8E08-4AAD456C3789}

{22E8EC7E-7AEC-4D9E-BBE1-7F1FAFE7002A}

{5212C113-3B43-40E4-BB35-F491724BC22E}
上等湯

{8B14403D-3AB9-4312-BC54-B895E18940E1}
青龍泉(一階浴室、昭和初期、ふるさと下関より)

{6AEE0F46-6EC0-4106-9769-D6ACC0C24231}
大正時代に建てられた昔の青龍泉には2階があり、カフェやビリヤード場があった(ふるさと下関より)

{34118125-A2CE-44AD-BD1D-88F1F51C8F10}
山頭火

{7FEF956F-6111-483E-BC56-22BB8C55E282}
有形文化財、玉椿旅館

{4BB1E059-749C-4F08-AF13-DA0157A3E067}
コルトーと川棚温泉

{A4D82E07-D37F-421D-AC81-3909724B4D17}
江戸時代の川棚村(参考)


参考

① 温泉一覧

{E8E08D64-99C4-4A78-B63F-6D458CF574D4}


「毛利候」として今も愛される川棚を愛した歴代長府長門藩の藩主たち(参考)

  • 毛利元就から数代後、わずか4才にして長門長府藩の3代藩主となった綱元候は56年もの間藩政に力を尽くし、貧民の救済や文武奨励、寺社建立など様々な功績をのこした名君です。元禄15年にはかの赤穂浪士を10名預かっており、幕府にも信頼が厚い藩主でした。彼が病を得た時、治癒を目的として川棚温泉につかったところたちどころに回復し、その後川棚温泉には殿様専用の湯治場が設けられ、以後代々の藩主にも愛され手厚く保護されました。結果として長門長府藩はもとより山口県内でもお殿様から庶民まで訪れる屈指の湯治場となったのです。13代元周候は、川棚の美しい眺望を「川棚八景」として名づけたと言われています。本当に代々のお殿様は川棚温泉がお気に入りだったようです。「毛利候」とは一人のことではないのです。


③ 山頭火(参考)
 
昭和7年(1932年)5月24日、山頭火は初めて川棚の地を踏みました。佐賀県嬉野に滞在した後に川棚を訪れた山頭火は、そのときの心境を日記『行乞記(二)』にこう記しています。「嬉野は視野が広すぎる、川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をここにこしらへよう」。一目で川棚の地を気に入り、ここを終の住処と心に決めた山頭火は、定住するための質素な住まい(其中庵:ごちゅうあん)の建設を進めます。川棚では木下旅館、中村屋などの旅館が、山頭火をあたたかく迎え入れ、山頭火自身も滞在中には大いに酒を呑み、川棚の風土と人情を満喫。そして、温泉に目のなかった山頭火は、川棚の湯にも頻繁に浸かりました。「今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どんどん湯が流れて溢れていた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた」と『行乞記(三)』に川棚温泉の感想をしたためています。もちろん、山頭火は川棚でも多くの名句を詠んでおり、妙青寺の石碑に刻まれた「涌いてあふれる中にねている」、川棚クスの森の石碑にある「大楠の枝から枝へ青あらし」をはじめ、終生の地の決心を詠んだ「花いばら ここの土にならうよ」などは特に有名です。川棚を愛し、川棚の土になろうとした山頭火でしたが、その願いは叶わず昭和15年(1940年)松山市で57年の波乱の生涯を閉じました。山頭火をとりこにした緩やかな山々、素朴で懐かしい田園風景と上質な温泉。それは永い時を隔てた今日でも、この地に脈々と受け継がれています。いまも気軽に川棚を散策すれば、山頭火の面影を偲ぶことができます。


④ 玉椿旅館、国登録有形文化財(参考)

大正12年。大阪相撲の十両力士だった山口県出身の玉椿関が、引退後、ふるさと川棚の相撲文化への貢献と地域観光の活性化のためにと創業したのが「玉椿旅館」です。


{5D17D02B-ABBD-4CC2-8DD4-0DD85AB15683}
昭和初期、防長山(昭和9年初入幕)と玉椿(大正時代の大阪相撲で活躍)


⑤ コルトー(参考)


豊かな詩情と多彩な感情、そしてどこまでも艶やかな響き…。その比類なく美しい演奏で、世界中の聴衆に感動を与えた20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962年)。スイス・ジュネーブ近郊に生まれ、幼時期にパリに移ったコルトーはパリ音楽院に進学。そこで、ショパンの薫陶を受けたエミール・デコム(ドゥコンブ Émile Descombes)に師事し、次第にその天賦の才を開花させていきました。第一次世界大戦後はピアニストとして欧米を巡演。とりわけ、ピアノの詩人と謳われたショパンを弾けば、アルトゥール・ルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストと絶賛されました。日本でもショパンのピアノ曲が浸透し始めた昭和初期、コルトーの弾くショパンのSPレコードは、つねにベストセラーになりました。さらに、コルトーはピアニストだけでなく、指揮者、教育者としても活躍。1919年には、オーギュスト・マンジョとともに自らの音楽学校「エコール・ノルマル音楽院」を設立し、音楽教育にも惜しみない情熱を注ぎました。

昭和27年(1952年)、晩年期を迎えたコルトーは念願の日本公演を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。山口県では宇部と下関でコンサートを開催し、この間、コルトーが宿泊したのが川棚温泉のホテルでした。来日して2週間目を迎えていたコルトーは、まろやかな海となだらかな山に包まれた、やさしい川棚の美しさに魅了され、「私はこれまで世界の美しい海や山を見てきたが、こんなに美しい夢のような島はみたことがない。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。」「日本は素晴らしい。」「なぜか外国にいる気がしない。」「日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしたと言われています。


⑥ 昭和10年(1935年)の川棚温泉(FB友達 窪田耕二さんより)



⑦ 航空写真

現在

1963年


⑧ 川棚グランドホテルお多福

旅館·於多福屋玄関前でのツーリングの若者(豊浦町川棚·昭和初期)

川棚温泉のシンボル木造3階建ての旅館玄関前。オートバイは若者にとって憧れの的であった。風防眼鏡やハンドルの警笛ラッパが時代を感じさせる。

(下関・豊浦の100年より)(彦島のけしきより)