入口
本堂
推古天皇の時代(611)に百済の琳聖太子が創設したと伝えられるお寺で、初めは福生寺と言っていた。途中天台宗に改宗していたらしいが、弘長年間(1261-1264)に一遍上人がこの地を訪れたとき、その時の住職顕長法師が念仏門の時宗に改宗。
平安時代末とおもわれる薬師如来木像があり、国の重要文化財に指定されている。本堂横の薬師堂に安置されていたが、昭和20年(1945)の戦災で薬師堂は焼失し、薬師如来像も傷ついてしまった。
参考
① 本堂の右手の上、菅原神社の後ろに宮内庁が管理する墓がある。
亀山天皇皇の孫、尊観親王
生没年:正平4(1349)年~応永7(1400)年
父:常盤井宮恒明親王
11歳で出家して鎌倉の清浄光寺に入った。時宗中興の祖といわれており、摂津、出羽、甲斐、相模等を巡り各地の住職を務めた。
左: 山県有朋、右: 福原和勝
長府藩士村上小平太の三男として生まれ、同藩士福原俊親の養子に迎えられる。
和勝は、文久三年(一八六三)泉十郎 有川恒槌ら有志と長府藩精兵隊を組織、元治元年(一八六四)には熊野直介らと藩校「集童場」の設立に尽力し、藩内年少子弟の育成を計る。
また同年八月には、英米仏蘭四国連合艦隊との攘夷戦に参戦、長府藩報国隊の結成にも参与するが、のち奇兵隊に投じる。さらに慶応二年(一八六六)第二次長州征討の四境戦においては報国隊軍監として豊前に転戦、戊申の役にも参戦し著しい軍功をあげ、維新後の明治三年、英国に遊学し同五年に帰朝、陸軍大佐に任じられる。その学識深く、勇敢知略に富んだ人柄は、将来、日本陸軍の中心たる人物として大いに嘱望される存在であったが、明治十年の西南の役に第三旅団の参謀として出征し、同年三月、肥後岩村の戦いで負傷。二十三日、ついに三十一歳をもって生涯を閉じた。