小倉戦争前夜の赤間関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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小倉戦争前夜

「緊迫した赤間関の様子」

幕府総攻撃の報をつかんだ高杉晋作は慶応2年6月15日山縣狂介・片野十郎らと17日開戦の会議を行った。

その緊迫した様子が奇兵隊日記に記されていた。赤間関在住の人々(非戦闘員)は避難を開始した。当時赤間関在住のほとんどが戦争開始の報を知り、住吉・後田方面の内陸部へと避難を開始した。また関門海峡に停泊の北前船等も出帆の準備を始めた。・・

慶応2年(1866)6月16日 奇兵隊日記

馬関住居之者孰(いずれ)ヨリ聞付候今夜ヨリ明朝ニ掛戦争有之由ヲ知リ二三千人計リモ関地ヲ立去り碇泊ノ日本船杯(など)モ餘程混乱致候由之事


連携を深める奇兵隊と報国隊 

小倉戦争開戦前の6月15日、関門海峡を挟み幕府軍は小倉側各所に台場設置を完了した。

熊本.久留米.小倉の軍勢が集結終えその数2万、小倉側各所にある砲台からの発砲は緊張感をますものであった。

そんななか、住吉神社の奇兵隊と椋野にあった長府藩報国隊とは互いに連携を深めていた。

そのことがわかる文書がある。

慶応2年(1866)6月15日 奇兵隊日記

1. 十時後向地ニ當砲聲有之卽時内藤源吾ヲ以報国隊ヨリ斥候傍差越候処小倉ニ當リ發砲之模様申聞候由




参考

① 功山寺の決起から小倉戦争の間の奇兵隊と報国隊の陣営(参考)

赤丸: 住吉神社(奇兵隊陣営)
黄丸: 椋野村関山(報国隊陣営)


② 長州奇兵隊戦死墓、、、小倉戦争、赤坂の戦い(参考)


小倉戦争最大の激戦と呼ばれる赤坂の戦い。そこでは、小倉藩以外の征長軍で唯一ちゃんと戦った熊本藩軍が参戦し野戦砲を用いた砲撃戦を展開した話があります。それにより長州藩兵は多くの死傷者を出すことになりました。


奇兵隊の山田鵬輔隊は、熊本藩の砲台を落とそうと突撃します、しかし銃弾に当たって山田は戦死。隊は壊滅します。戦死者の遺体も収容できず、山田の首のみ隊士の阿部宗兵衛が持ち帰りました。


勇猛に戦った山田隊の遺体は火葬され放置されましたが、熊本藩軍の参謀として参戦していた横井小楠は、放置された遺骨を集めさせて「防長戦死之塚」の木柱を建てて葬りました。


その後の明治元年、木戸考允は長州の僧田中芝玉に遺骨を下関に改葬するよう頼みますが、話を聞いた横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを無視することになるので遺憾だ」と、木戸に抗議します。この抗議に改葬を諦めた木戸は、田中芝玉に小倉で墓を守るよう頼む。芝玉は長州(彦島)が見える丘に墓を移して墓守となりました。


その他、赤坂東公園、手向山公園、延命寺などに戦死者の墓や慰霊碑などがある。


北九州市小倉北区赤坂2丁目1 長州奇兵隊戦死墓