「SOSはなぜ届かないか」 杉山春氏のお話しを聞いて <その2> | 次郎とマーマの なんじゃこりゃ日記

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知的しょうがいA1判定=次郎 
その次郎がマーマと呼ぶ私とのなんじゃこりゃな日々

杉山春さんのお話しは、

 

実際の取材した事件を丁寧に説明することで、

 

SOSが届かない状況を浮き彫りにしていった。

 

杉山春さんの著作「ネグレクトー育児放棄真奈ちゃんはなぜ死んだか」(小学館文庫)

 ~第11回 小学館ノンフィクション大賞受賞作~

 

 

を私はまだ読んでいないが、お話しはこうだった。

 

2000年、児童虐待防止法が出来て半年もたたないうちに愛知県で起こった3歳児餓死事件。

 

なんの知識もないままに取材に入って、

 

NPO法人CAPNA(キャプナ)http://capna.jp/の弁護士さんに、いろいろ教えてもらいながら、

 

初めての児童虐待の取材だった。

 

当時、21才の茶髪の夫婦は鬼の父・鬼の母と呼ばれ、強いバッシングの中にあった。

 

しかし、杉山さんは、「鬼」や「鬼畜」だとは思えなかったと言う。

 

少なくとも、こどもを育てる困難を感じている自分にも、他人事でない気持ちがあった。

 

 

10代で子どもを授かった二人は、精一杯張ろうという気持ちがあったのではないかと言う。

 

それぞれに困難な子ども時代を過ごした二人は、温かい家庭を作ろうとした形跡があった。

 

若い父親は会社員になり、社宅住まいを始める。

 

しかし、ある日、どういうわけか、この父親が子どもの頭をゆすぶり、


硬膜下血腫(頭蓋骨の中で脳がゆすぶられることで、小さな血管が切れることによっておこる)になる。

 

19才の母親は、下の子どもが生まれる少し前に、上の子に障がい(

後遺症?)があることがわかる。

 

若い母親は、うまく育ってくれないこの子を隠すようになる。

 

保健師が訪ねて行っても、会えないことが増える。

 

この子を診断した医師は、痩せて元気のない様子に虐待を疑い、

 

一週間後に来るように言う。

 

一週間後、入院の必要があれば、入院をする予定だった。

 

ところが、一週間後に連れて来られた子どもは、体重が増え、元気になったように見えた。

 

それは、大人で言えば一週間に10キロ増えるほどの急激な増え方だったが、

 

医師は、体重が増えていることもあり、入院の必要なないと、帰してしまう。

 

しかし、その後、遺体となって発見される。

 

 

その後、明らかになってゆくのは、

 

若い夫婦の孤立(価値観が違うと仲良くするのは難しい)。

 

母親グループにも入れない。

 

担当保健師の孤立(新人で遠慮もあり)で情報が充分にまわっていかなかった。

 

研修も不充分で知識も不足していた。

 

情報が上から下へ伝えられ、医師の言うことが正しという感覚があった。

 

医師の知識不足(急に体重が増えることもネグレクトを疑うことを後で知る)。

 

児童相談所の所長も、祖母が居るのなら、祖母に頼めばいいという感覚。

 

 

本来なら、もっとも側にいる人の情報を、

 

上にあげて共有すべきだった。

 

 

しかし、それにも増して、孤立する母親に、

 

手を差し伸べても、手をつなげない。

 

手をつないでも、振りほどいてしまうということが、

 

往々にしてあるという。

 

自分の困りごとを、隠そう隠そうとすることが、

 

孤立を深めていくことになると語った。

 

どう、繋がっていったらいいのか?

 

それが、大きな問題だと言っていた。

 

 

 

私は、この話を聞きながら、自分のことを考えていた。

 

3人の子どもを連れて離婚して、

 

障がい児のいるひとり親家庭の私のところに、

 

福祉事務所の方が訪ねてくださることがあった。

 

「なにかお困り事はないですか?」

 

と親切に声をかけてくださるその相談員さんに、

 

私は心を開くことはなかった。

 

「はい、お陰さまで、元気に暮らしています。なにも、困っていることはないです。」

 

それが、毎回の私の答えだった。

 

相談したところで、わかってもらえる気がしなかったからだ。

 

 

しかし、5年も経った頃だろうか?

 

担当の相談員さんが換わって、

 

「私は、今はこんなお仕事をさせてもらっているけど、

 

あなたと同じで、ひとり親で子どもを育ててきたのよ。」

 

そう自己紹介をした女性が現れた。

 

その相談員さんは、私が玄関に飾っているものなどを、「素敵ね」とほめて帰って行った。

 

 

その相談員さんが、二回目に訪ねて来て「なにか困っていることはない?」

 

と尋ねてくれた時に、

 

私は、はじめて「実は、とても困っているんです。」と、心を開いた。

 

 

その話を聞いたその相談員さんは、私が使える制度と、

 

その制度を使って頼める事業所のパンフレットをもって、

 

その後、訪ねてくださった。

 

 

そのことをきっかけに、

 

私のうちにヘルパーさんが来てくれることになり、

 

私は外に出て、ヘルパーの資格を取ることができた。

 

現在の介護福祉士の道が開けたのは、

 

「私もあなたと一緒なんですよ」という相談員さんの存在だった。

 

そして、私の発した「困っているんです」という声だった。

 

 

私自身が、支援する立場になって、

 

支援を必要とする方にお会いするときに、

 

最初に、「今まで、よく頑張ってこられましたね」と声をかける。

 

それは、支援に繋がるまでの、困難を知っている私の心からの声だ。

 

 

困難を抱えた人が、

 

自分の困難を隠すのは、なぜか?

 

それは、人に助けられた経験がないからではないか?

 

困難を、自分の所為だと非難され、

 

「そんなことは自分でなんとかしろ!」と言っているような世間を、

 

よくわかっているからではないか?

 

 

 

杉山春さんのお話しは、「大阪二児置き去り死事件」へ

 

 

つづく