中央アジアの内陸部にある
ウズベキスタンの首都・タシケント
ここには1,500人の観客を収容する
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。
2年かけて建設され1948年に完成した。
1966年4月に大地震があった時、
市内の建物の大半が倒壊した中でも、この劇場はビクともせず、伝説的な建物となった。
あるウズベキスタン人は、劇場を眺めて
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく、骨身を惜しまず働いて立派な劇場を残した。素晴らしい民族だ」と話した。
この劇場を作ったのは日本人だと
国民のみんなが知っているという。
その劇場周辺やタシケント市内には
1300本もの桜が植えられている。
全て日本から土と苗木を空輸し
日本人の造園の専門家がついて
ウズベキスタンの人々が植樹した。
なぜこれほどの桜が植えられたか。
以下転載、一部省略
2000年10月19日
ナヴォイ劇場で「日本の祭り」が開かれた時だった。
当時のウズベキスタン大使・中山恭子氏に、一人の日本人が会いに来た。
池田明義さん
「私は戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい」と。
彼は戦争中にソ連軍の捕虜にされ
強制労働をさせられた人だった。
シベリアに抑留された日本人は65万人。
シベリアに連行された日本人は、 旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなど技術者集団が多かった。
中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。
翌日、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。
「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」
そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残し、日本に帰って行った。
すぐに中山大使はベカバード市を訪れ、市長が水力発電所を案内してくれた。
ファルハド・ダムの水力発電
市長は「ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所のおかげで今は緑豊かな町になりました。55年間、毎日、1日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています」と感謝を述べた。
ダム建設の元現場監督にも会った。
彼は「日本人達は苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせず真面目に仕上げた。栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わず、明るい笑顔さえあった。
具合が悪そうだったが、私に笑顔を向けてくれた日本人が、来ていなかった時があった。
「彼はどうした?」と聞くと「昨夜栄養失調で死にました」という。それほど過酷な中で、きちんと仕事をしてくれたのです」と話した。
それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。
何もない枯れ野原で、足元を見ると、盛り土がはるか遠くまで並んでいた。
墓標も何も無かった。
中山大使はその場で立ちすくんだ。
墓地を訪れた後、日本人の事をよく覚えているという90歳の老人に会った。
老人は「お墓に眠っているのは、大切な日本の友達なんだ。お参りしてくれてありがとう」と言った。
中山大使が「日本人の事を覚えてますか」と聞くと
「彼らはとても良い人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にした。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けていた。
うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全て良いものだった。本当に凄い人達だった」
こういう話を老人からいつも聞かされて、町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思い、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。
旧ソ連時代「日本人の墓は作ってはならない、遺体は捨てろ」という命令もあったという。
それでも、ウズベキスタンの人達は、ひっそりと日本人の墓を守り抜いてくれた。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、今でもウズベキスタンの人々の生活を支えてくれている事への、恩返しだったという。
ウズベキスタン全体では、大戦後、25,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。
ナヴォイ劇場はその1つ。
その建設現場では、過酷な環境により
79人の日本人が命を落とした
だが、どの場所でも、日本人が勤勉に働いていた話が語り継がれていて、ウズベキスタンでは子供に対して「あなたも日本人のようになりなさい」と言われるようになった。
中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思い、日本でも募金活動が始まり約2,000万円が集まった。
そしてウズベキスタン政府に
「日本人墓地の整備をしたい」と伝えると、スルタノフ首相からすぐに返事が返って来た。
「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、ウズベキスタン政府が責任を持って行います。これまで出来ておらず申し訳ない」
「募金を使って下さい」と伝えると
「これは使えません」と返された。
工事はすぐに始まり、それぞれの地域で、住民達が集まって石を切り出し、磨き、垣根を作り、墓石の周囲に雑草が生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。政府の事業声とはいえ、多くの人がボランティアで参加してくれた。
各地域で大勢の人々が作業に参加したため、1年ほどで全ての墓地整備が完了した。
荒れ果てた墓地には白い墓石が並んだ。
墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な光景が忘れられなかった。
そこで中山大使は、集まっていた募金を桜の苗木に使えないか、と考えた。
元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」という話も出て、大賛成だった。
ウズベキスタン側からも「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。
こうして各日本人墓地、中央公園と大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1,300本もの桜の苗木を植えるという大事業が始まり、完成した。
また、残った募金で、13カ所の日本人墓地の地域の学校に教材や日本製のパソコンを寄付した。教育熱心なウズベキスタンの人々は大変喜んだという。
転載終わり
ナヴォイ劇場には
完成時には無かったプレートがある
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、この劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
これを付けたのは
ウズベキスタン初代大統領カリモフ氏
1996年、ナヴォイ劇場の壁面に、日本人が建設に携わったという証としてプレートを作成する事を決めた。
ソ連時代はこうした事は一切禁止されていた。
プレートを翻訳した菅野怜子氏
「【日本人捕虜】と訳したら、修正の依頼があり【強制的に移送された日本国民】に変わりました」
「彼らはウズベキスタンの恩人だ。
間違っても捕虜などと書くな」
カリモフ大統領の意向があったそうです
今から70年前
日本から遠く離れた異国の地で
「生きて日本の桜を見たい」と
精一杯働いた、多くの日本人達がいた
今、その桜の下で813人が眠っている
ちなみにカリモフ大統領は
現在でも現役であり
(追記・2016年9月2日に死去なされました)
2015年秋には
ウズベキスタンを訪問した
安倍総理と会談した
安倍総理はウズベキスタンで亡くなった
日本人の墓を訪れたという
記事の転載には
国際派日本人養成講座 No.946
http://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201604/article_2.html
ねずさんのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-797.html
以上を参照させて頂きました