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To spread the pride of Japan

日本の陰ばかりではなく
光輝く本当の姿を多くの人々に広めていきたい

硫黄島での戦闘は、
1945年の2月19日から3月26日まで続きました。

栗林忠道陸軍中将が指揮し
島内に地下壕を張り巡らせて
日本軍は徹底抗戦しました。

日本兵およそ2万2000人のうち
今もおよそ1万2000人の遺骨が
見つかっていません


その硫黄島に
再び光を当てた青山繁晴さんは
一般の人からは馴染みの無い方ですが

硫黄島の問題点と真の役割を
安倍総理に問題提起し
安倍総理の訪問に繋げるなど
多大な影響を与えた方です。





以下転載、一部省略



青山繁晴さんの番組より

「硫黄島の戦いは、栗林中将が、それまでの帝国陸海軍の戦い方を全部覆したんです。


まず硫黄島は、日本の領土で、2000年を超える歴史の中で初めて外国に侵されようとした島。その時に、例えばこういう海岸線に出てきて、その、バンザイ突撃も含めてワーッと戦えばいいっていうふうにやってきたのに、それを栗林さんが全否定をして、21000人で、素手で、島の中に地下壕を作って、そこに立て籠もろうと。

それはどうしてかというと、この硫黄島はこの場所から分かるように、米軍が取ったら、本土に爆撃するために使うんです。で、それを、穴に籠もることによって、戦いを1日引き延ばしたら1日分、爆撃が遅れて、そのぶん本土で、女性や子供を中心に生き延びて、そこから必ず祖国が甦ると、いう発想で、地下壕を作っていったんです。で、最後の突撃で、地下壕からたくさん出て行ったっていう、歴史もあるんですけれども、でもやっぱりこの地下壕の存在も障害になって、なかなか簡単には遺骨が見つからないで、未だに12000人が取り残されてるってことなんです。




2006年、立入禁止を何とか乗り越えて硫黄島に入った時に、あの壕の中に行く前に、海上自衛隊の硫黄島部隊の司令にお会いして、司令が「青山さん、滑走路とか基地の建物は、全部遺骨を収集した上で造ったんです」と言われたんで、僕は正直胸を突かれ「司令、申し訳ないけどそれは嘘です。米軍から滑走路は引き継いで、その西側の2割だけ剥がして、その部分の遺骨は取り戻したけれども、あとはそのまま使った方が便利だという理由で、実はあなたが立ってるその足の下にも、僕が立ってる足の下にも、英霊の方々がいる。足の下に閉じ込めたまま、そういうことをおっしゃっていいんでしょうか」と、言いましたら「あなたはそこまでご存知でありますか、それなら、言いましょう。本当は、その通りです。私たちも、胸に悔いを秘めながら、今までやむを得ず命令で、こういう任務を果たしてまいりました」と、言われた。

僕は「あなたのような正直な方が司令だったら、お願いが2つある」と言った。

硫黄島に赴任する自衛官は基本的に1年で交代する。1年で帰れる。なぜなら、硫黄が溢れる暑い島で環境が厳しすぎてそれ以上いられない。司令もあと数ヶ月で東京に帰れる。ところが、司令や僕の足の下の英霊の方々は何十年取り残されたままなんですから、司令、東京に帰られる時に、このことをお願いしますと、言いましたのがこの2つです」


①最後の1人まで英霊を故郷に帰すべき
②戦闘部隊を配置して、中国への抑止力にすべき

「硫黄島には戦闘部隊がいると思いきや、実際は、救難ヘリが2機いるだけ。硫黄島の南にある沖ノ鳥島は、日本にとっては島ですけど中国は「それは岩に過ぎない」と言ってて。

僕はこの段階で司令に申したのは
「やがて中国はきっと空母を持ちますと。その空母は、例えば、その沖ノ鳥島に乗り上げるために、使う目的もあると思う」と。乗り上げて潰してしまったら日本の領海は失われるわけです。中国の勢力がそこに出てこられるから。だからそういう、ことが起きないように戦闘部隊を置くべきだと、申しました。

7年後、実際に上層部に伝わったんですけど、たった今、何が起きてるかというと、こういうことが起きました」



2013年10月6日に、小野寺防衛大臣(当時)がこの南鳥島に行くんです。南鳥島になぜ行くかというと、要するに沖ノ鳥島も含めて、これ戦略的に考えてますってことを中国や世界に発信するために、まず6日に南鳥島に、航空自衛隊のC130輸送機で行って、その日の夕方までに硫黄島に移って、そして硫黄島で宿泊をして、そして小野寺さんも僕も、一般的には幽霊って言いますけど、ここに泊まる人ならみんな体験することで、帝国海軍の方々、陸軍の方々も含めて、出てこられるんです。小野寺さんもそのつもりで行くわけです。

一晩泊まって、翌朝、午前中から、その、硫黄島のこういう施設を造るための視察をし、あるいは厳しい環境で任務を務めてる自衛官を激励するんですが

「その時に滑走路も視察してきます」と言われるから

「小野寺さんそれは、海上自衛隊・航空自衛隊にとっていろいろ不利益、不便があってもなお、大臣の強い意志としても、滑走路も引き剥がしますよって意志の表示のためですね」

と申しましたら、小野寺大臣は
「その通りです」と、おっしゃった。

こういう動きを受けて、新しい事実がいくつか出てきています




これはまさしく、本気でやろうとしてることなんです。本気でやろうとしてるっていうのは、安倍さんの本気度が、その、閣僚たちに伝わってる、あるいは自衛官たちにも伝わってるからです。



実は2007年の5月29日
1回目の安倍政権の松岡農水大臣が、首吊りをなさった翌日に安倍さんとたまたま、外交を話し合おうっていうことで1対1で会うことになってた。

キャンセルになると思ったらキャンセルにならずに、会いに行きましたら、その時、部屋に入ってこられた安倍さんの目が、ただ悲しみの目いっぱいだった。

だから、僕は日中とか、日米とか、外交の話全部やめて、硫黄島の話だけして「滑走路の引き剥がしまでやるとしたら、あなたしかいないと。それできっと安倍さんはやがて、自民党の中から足引っ張られて辞めるだろうけど、いつか再登板した時に、その、硫黄島のことを考えて下さい」って言ったら、安倍さんは不機嫌になられて、荒々しく出て行かれたんですよ。

現職の農水大臣が首吊った時にこそ冷静に、外交の話をしたいと思ってキャンセルしないで会ったのに、なぜ硫黄島の話なんだって言われて、出て行かれた。

だから僕は安倍さん忘れてると思ったら、それを7年間ずっと覚えてるだけじゃなくて、野党時代に、僕の話が本当かどうかも全部調べられて、そして本当だと確認したから、2013年4月14日に硫黄島に行く事になった。

そして行かれて、何をされたかというと、本当の大事なポイントは、これなんです。

その、安倍さんは、印象的なこういう行動がありました





土下座をして滑走路をなで回すんです。

これは2007年5月29日、僕と安倍さんと1対1で会った時に、このことをお話ししたんです。

「滑走路に降りたら、思わず、土下座をしてなで回しました。この下にいらっしゃる先輩の方々、私たちは、日本兵は悪者だと刷りこまれたから、忘れていたけれども、ようやく、思い出してここに来ました。必ず全員を故郷に取り返しますっていう話を、土下座をいたしました。人生で土下座はこれが、最初で最後だと思います」って言ったら、安倍さんそれを覚えてらっしゃって、そして、こうやって土下座をなさって、この下の英霊の方々に、話しかけていらっしゃるんです。

だから、もう、票になるとか、政権の人気がどうだとか一切関係なく、私たちの新しい生き方として問題提起をされてることは間違いないと思います。







その上で、じゃあ、安倍総理は本気だったら、閣僚が本気だったら、このまま順調に進むのか。いや、そんなに生やさしいものじゃありません。


ある海上幕僚長ですが
「青山さん困るんです。硫黄島の滑走路の下まで、手を入れて、遺骨を取り戻すならば300億円かかる。私たちの調査でもそう思うと。300億円もあったら、装備を買いたい」と。

「だから、そっちを優先したいんで、もうそろそろそういう話やめてくれませんか」まで言われて、僕は当然激論になりましたけど、こういう話を正直になさるのはとても大事。

と同時に、自衛隊でも、将軍になったりトップになった人の中には、今まで通りの自衛隊や、あるいは日米のあり方でいいじゃないかと、いう抵抗が、実はその、その人の個人的な利益だけじゃなくて、引きずってるもの、背負ってるものがあまりに多くてそうなってしまうんです。

ということは逆にですね、硫黄島の英霊のご遺骨を取り返す意味が、初めてよく分かりますよね。つまり、戦争の思い出話するとか、あるいは戦争を美化するんじゃない。

戦争は殺し合いです。

そうじゃなくて「私たちの先人がどう生きたのか」を、私たちが知ることができる。先の戦争についてもずいぶん間違った話が、例えば中国・韓国によって広められているけれども、私たち自身が学ぶ場にできる、そのことをですね、硫黄島を現在のような立入禁止の島にしておいていいはずはない。

公式には、基地があるからってことになってますけど、さっきの地図も思い出していただくと、基地は一部ですから。

基地を維持しながら、実は国民が入ることができる。しかしその時に、例えば、沖縄の戦跡の一部のように、観光地にするんじゃなくて、粛々と私たちが入れるようにすべきだと思うんですが、ひとつの提案はこれです」


島に入って全島を見た結果から申しますと、小学・中学・高校の生徒たちを、修学旅行として、戦争の本当の実態、それと同時に、私たちの、これ日本兵と言われてきましたが、私たちの、60数年前の、普通の先人の、先輩の方々ですから。

穴を掘る時に、自分の利益のためどころか、自分の子や孫じゃなくて、まだ顔も見てない私たちのために、人のためにだけ、自分の命まで捧げて、生爪剥がしながらさっきの壕を作られた。

公のために生きるっていう姿勢を、私たちは、子供たちに伝えること、そのために、その、硫黄島を、新しい役割を担っていただくっていうことが、とても大事だと思います。



転載終わり






青山繁晴氏のような国士こそ
国会議員に必要だと思う











転載元の文章を一部省略、加筆致しました
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1447.html

 

中央アジアの内陸部にある
ウズベキスタンの首都・タシケント

ここには1,500人の観客を収容する
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。

2年かけて建設され1948年に完成した。

1966年4月に大地震があった時、
市内の建物の大半が倒壊した中でも、この劇場はビクともせず、伝説的な建物となった。

あるウズベキスタン人は、劇場を眺めて
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく、骨身を惜しまず働いて立派な劇場を残した。素晴らしい民族だ」と話した。

この劇場を作ったのは日本人だと
国民のみんなが知っているという。

その劇場周辺やタシケント市内には
1300本もの桜が植えられている。

全て日本から土と苗木を空輸し
日本人の造園の専門家がついて
ウズベキスタンの人々が植樹した。

なぜこれほどの桜が植えられたか。




以下転載、一部省略


2000年10月19日
ナヴォイ劇場で「日本の祭り」が開かれた時だった。

当時のウズベキスタン大使・中山恭子氏に、一人の日本人が会いに来た。

池田明義さん

「私は戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい」と。

彼は戦争中にソ連軍の捕虜にされ
強制労働をさせられた人だった。

シベリアに抑留された日本人は65万人。 

シベリアに連行された日本人は、 旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなど技術者集団が多かった。 

中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。

翌日、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。

「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」

そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残し、日本に帰って行った。

すぐに中山大使はベカバード市を訪れ、市長が水力発電所を案内してくれた。


ファルハド・ダムの水力発電

市長は「ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所のおかげで今は緑豊かな町になりました。55年間、毎日、1日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています」と感謝を述べた。

ダム建設の元現場監督にも会った。

彼は「日本人達は苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせず真面目に仕上げた。栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わず、明るい笑顔さえあった。

具合が悪そうだったが、私に笑顔を向けてくれた日本人が、来ていなかった時があった。

「彼はどうした?」と聞くと「昨夜栄養失調で死にました」という。それほど過酷な中で、きちんと仕事をしてくれたのです」と話した。


それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。

何もない枯れ野原で、足元を見ると、盛り土がはるか遠くまで並んでいた。

墓標も何も無かった。


中山大使はその場で立ちすくんだ。



墓地を訪れた後、日本人の事をよく覚えているという90歳の老人に会った。

老人は「お墓に眠っているのは、大切な日本の友達なんだ。お参りしてくれてありがとう」と言った。

中山大使が「日本人の事を覚えてますか」と聞くと

「彼らはとても良い人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にした。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けていた。

うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全て良いものだった。本当に凄い人達だった」

こういう話を老人からいつも聞かされて、町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思い、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。


旧ソ連時代「日本人の墓は作ってはならない、遺体は捨てろ」という命令もあったという。

それでも、ウズベキスタンの人達は、ひっそりと日本人の墓を守り抜いてくれた。

それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、今でもウズベキスタンの人々の生活を支えてくれている事への、恩返しだったという。


ウズベキスタン全体では、大戦後、25,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。

ナヴォイ劇場はその1つ。

その建設現場では、過酷な環境により
79人の日本人が命を落とした

だが、どの場所でも、日本人が勤勉に働いていた話が語り継がれていて、ウズベキスタンでは子供に対して「あなたも日本人のようになりなさい」と言われるようになった。



中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思い、日本でも募金活動が始まり約2,000万円が集まった。

そしてウズベキスタン政府に
「日本人墓地の整備をしたい」と伝えると、スルタノフ首相からすぐに返事が返って来た。

「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、ウズベキスタン政府が責任を持って行います。これまで出来ておらず申し訳ない」

「募金を使って下さい」と伝えると
「これは使えません」と返された。


工事はすぐに始まり、それぞれの地域で、住民達が集まって石を切り出し、磨き、垣根を作り、墓石の周囲に雑草が生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。政府の事業声とはいえ、多くの人がボランティアで参加してくれた。

各地域で大勢の人々が作業に参加したため、1年ほどで全ての墓地整備が完了した。

荒れ果てた墓地には白い墓石が並んだ。

墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な光景が忘れられなかった。

そこで中山大使は、集まっていた募金を桜の苗木に使えないか、と考えた。

元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」という話も出て、大賛成だった。

ウズベキスタン側からも「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。

こうして各日本人墓地、中央公園と大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1,300本もの桜の苗木を植えるという大事業が始まり、完成した。

また、残った募金で、13カ所の日本人墓地の地域の学校に教材や日本製のパソコンを寄付した。教育熱心なウズベキスタンの人々は大変喜んだという。



転載終わり



ナヴォイ劇場には
完成時には無かったプレートがある


「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、この劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

これを付けたのは
ウズベキスタン初代大統領カリモフ氏

1996年、ナヴォイ劇場の壁面に、日本人が建設に携わったという証としてプレートを作成する事を決めた。

ソ連時代はこうした事は一切禁止されていた。

プレートを翻訳した菅野怜子氏
「【日本人捕虜】と訳したら、修正の依頼があり【強制的に移送された日本国民】に変わりました」

「彼らはウズベキスタンの恩人だ。
   間違っても捕虜などと書くな」

カリモフ大統領の意向があったそうです













今から70年前

日本から遠く離れた異国の地で
「生きて日本の桜を見たい」と
精一杯働いた、多くの日本人達がいた

今、その桜の下で813人が眠っている












ちなみにカリモフ大統領は
現在でも現役であり

(追記・2016年9月2日に死去なされました)

2015年秋には
ウズベキスタンを訪問した
安倍総理と会談した


安倍総理はウズベキスタンで亡くなった
日本人の墓を訪れたという




記事の転載には

国際派日本人養成講座 No.946
http://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201604/article_2.html

ねずさんのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-797.html

以上を参照させて頂きました