どうしても子供を生みたかった気持ち、大好きな大切な家族のこと。 | 野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

ピアノ弾き語り“切実系”シンガーソングライター

昨日は生まれ故郷の生家、滋賀のおばあちゃん家から帰ってきてから、幼なじみののちゃんとごはんを食べる。
今日は朝から初めての早番で、久しぶりに仕事が早く終わったものだから、吉祥寺で抹茶ラテを飲んでいる。


昨日インスタやFacebookの方に上げた、
どうしても子供を産みたいとか、お母さんになるのが夢みたいな、この訳の分からない強すぎる気持ちって一体何なのだろう、と思い当たってみた。


私は初孫で、初めての長女で、私のひかりちゃんアルバムだけでも10冊以上あって、小さい頃はおばあちゃんお手製の子供服を着せてもらい、お父さんは私の自転車に乗れた時の写真を会社のスーツの胸ポケットに入れて持ち歩いてくれていたし、お母さんは必ず手料理を作ってくれて、車で送り迎え等もしてくれていたし、習いたい習い事も絶対に習わせてもらっていたし、弟や妹は「お姉ちゃんがちゃんとしてなかったら、私はこんな風に育たなかったよ」と言ってくれたり、二人で子供の頃の少ないお小遣いを貯めて十字架のネックレスをプレゼントでくれたり、おじいちゃんは私のプールの飛び込みの写真で町内写真展で賞を取り、お母さんのお姉さんは愛を持って心配してケンカしたり猫の写真を気にかけて送ってくれたり、友達が居ない訳ではなく、ケンカしても何度も仲直りをして側にしてくれる友達も居て、音楽でワンマンライブを出来るくらい、どこでライブをしてもちゃんと付いてきて支えてくれる大切なファンの方も居て、デザインやイラストで野坂ひかりのアートワークを全て担当してくれている、本気で世界で一番素晴らしい物を一緒に作れる大好きな幼なじみと活動ができて、泣くほど沁みる演奏をしてくれるサポートメンバーが居て、ほんとに幸せなレコーディングをしてくれる素晴らしい恩人の方たちが居て、
何でこんなに寂しいのだろう、何も無いとか全て捨ててでも欲しいものが在るとか、思ってしまう瞬間が有るんだろう、と思う。

これは最早子供が欲しいとか、子供を産んでお母さんになれば根底の寂しさが埋まるとか、そう言う問題ではないのではないだろうか。
子供を産んで自分の家族を持てば、体験出来なかった幸せな家庭を経験すれば埋まる、訳ではないのだ、多分。
そんな考えをしていたら、実際の子育てとのギャップが有りすぎて子供を育てるのなんて到底無理だなんて、冷静に考えたら誰でも分かる。

じゃあ私の持っている、この埋まらない寂しさみたいなものは、一体何なのだろう。

充たされない空腹、ずっと付いて回る飢餓感、ここがどこで自分は誰で今までどんなことをして来て、何を持っているか全く解らなくなる迷子のような感覚。居心地の悪さで胸がずっと気持ち悪いような歩くのも億劫になりそうな憂鬱な感覚、これは例えばゲームの中でゲームオーバーになったとしても、リセットされてたぶん、何回コンティニューして生き返ったとしても付いて回る消えない感覚だろうと思う。
それを怠惰に持て余すよりも、対処出来なくて逃げた振りしてまた巡りめぐって同じ場所に辿り着いて繰り返すよりも、もっと何か出来ることが有るのではないだろうか。

何度も同じところに出ると言うことは、何か違う意味が有るのではないか…と今初めて思い当たった。

そのループゾーンから抜け出すには、多分先に進むための鍵となる何か取るべき行動がきっと在るのだ。
それは恐らく私が今まで思い込んでいたであろう、誰かに愛されて普通の幸せになる結婚して
子供を産めば必ず埋まってなくなってくれると言う類いのものでは無かったのであろうと推測される…。
それは例えば、仏教用語でカルマとか、レーゾンデートルとか、そう言う言葉で表されるようなもの、生まれて来た理由とか、生きている意味とか、大袈裟に言うと運命だとか、気持ち悪い位付きまとってずっと消えない、どろどろみたいな感覚、私の影だとか光が当たれば見えてずっと付いてくるもの、もう一つの向き合うべきもの、鏡に映った自分のように逃れられないもの、のような気がする。
これのために人生を全うしました、みたいな。

正直今まで自分の音楽ってもしかしたら趣味の延長のように捉えていて、私は子供を産んで育ててそしたら寂しいのも消えるとばっかり思っていて、何だこれはまいった。だいぶ大変なことになっているのではないか。

でも今まで何もかも音楽を中心に生きるために仕事や日常も試行錯誤していて、それが執着に等しい恋愛感情なのかと認識していたものだけれど、それも一部有ってもしかし、それだけでは全然無かったのだと言うことだ。
これが自分の登るべき山なのか、と初めて自分の山道を認識したような感じ、今まで霧がかって隠れていた山の、全体像がやっと、視界が晴れて見えた感じ。

私はたぶん、音楽をやることに意味があって、それをやらなければ自分が、魂が解消出来ない何かを持っていて、それが出来るようにきっと人生も何もかも動いていくのだ、そしてそれは子供を産まなければならないとか、常識で考えうる一般的な事柄に縛られる話ではないのだ、と理解したように思える。
確かに自分の体の中に別の生命が息づいて動いて胎動している、その生命の神秘的な面白い体験にはとても興味があるけれど、女に生まれたのだから、命を産み出す、生命が生まれ出てくる“出産”と言う行動が私にとってすごく惹かれる物事では有るけれど、それをしなければ自分に価値が無いとか、全然人として経験値が足りないとか、全くの無意味な存在になる訳では、決して無いのだ。
言ったら兄弟をもう子育てしたような気持ちになっている訳だし。
それも人生の流れの中で、必要と在れば与えられる機会が自然と巡ってくるのではなかろうか、自分がしっかり生きていれば、自ずと。

「自分が生きた証のような消えない強いものがどうしても欲しい、それがなくてとても寂しくていたたまれない」と思うのならば、それを夫となる人や子供と言う“自分以外の他人”に与えてもらうのではなく、自分自身の手で作り出さなければ結局どうにも埋まらずしょうがないのではないか、と言うのが今の私の見解。
それを自分以外の他人に与えてもらおうってことは、他の生き方の人には有っても、私の人生では上手く行きっこないかもしれない。
だって本当には自分がそう思ってないから、そうだと良いなって逃げと言うか、怖い気持ちがあたかもそれが真実のように見せかけて、私も向き合わず逃げようと楽しようとしちゃうから。
それも自分の中の一つの本音であることはもちろんそうなんだ、弱くて立ち直れない自分、悲しいままの気持ち、それも本当で、でもいつまでもそこに立ち止まっていられるものじゃない。そのままでも良いんだけど、先に進むにはそれじゃ進めない場所。誰かに助けてもらいたかった、すごく辛くて悲しくて、かわいそうだった自分。
だって今までだって辛かったし、もうこれ以上傷付きたくないし、疲労しないで済むし、一時停止ボタンのようなもの、ずっと同じところでループ、何度も何度も迷子の繰り返し、他人の所為にしたり、端から運が悪かったとか諦めたり、才能がないとか、お金がないとか、恵まれてないとか、自分が被害者ぶって諦めたように見せ掛ければ、ずっと楽だものね。
馬鹿な振りして、出来ない風に見せかけて、弱いものぶってればそこから何も進まない、思考停止状態で居られる。
でも、それじゃあもう駄目だから。
気付いてしまうと、もう元には戻れないから。
知る前の自分には、逆立ちしたって巻き戻れない。

もし出産すると言う機会があったら、面白く楽しむ(きっと思う以上に大変でしんどくて想像と違うだろう)ことにして、それが無ければ自分に価値が無いとか、誰かの為に何としてでもとか、それが無ければ幸せじゃないって、自分の幸福の象徴・ステータス、幸せのパラメーター維持のために考えるのは、もう辞めても良いのかなぁと思う。
私の音楽は、私が思う以上に自分にとって尊い、価値のきっと在るものだ、
まるで出産のように、命を懸けて守るものだから生まれてきて、ここに存在していて、自分以外の他人に知ってもらえるようになっている。

私はもう自分以外に何かを守らなければいけないんだ、と強迫観念のように思わなくても、それが出来ないと自分に価値が無いとか、自分を軽んじたり卑下したりもう、しなくても良いのだ。

それを気付かせてくれるような、きっかけを作り出す音楽に出会えていることが、私にとっての幸福です。
私が一番大切だった、大事だった守りたかった家族、私はまだ子供で、全然上手く守れなかった。
思えばずっと家族を守らなきゃとか、一度壊れてしまった家族を次は絶対に守らなきゃって、もうそれだけのために生きてきたなぁ。

在ったはずのものが壊れて永遠に無くなってしまう、形が丸っきり変わってしまうと言うのは、とても恐怖な訳です。
それを知っても知らなくても生きていけるけど、人一倍それが強くて、ほふく前進と言うか石橋をめっちゃくそに叩いて渡りまくると言うか、それしか出来なかった。
いつか必ず無くなってしまう恐怖しか、自分の中に確かに残るものは無かった。
だからそれが自分の全体像と言うか、自分を形作る輪郭のように思えてしょうがなかった。

私は全て失う恐怖を、植え付けられた経験を、18年くらいかけてやっと塗り替えられたのかなぁと思う。
それが一生続くかも知れなかった訳だし、本当の辛さなんて他人には解らなくて自分しか理解出来ないんだけど、本当に、よくやったなぁと労ってやりたいと思う。
自分にそれが出来たなら、いつか自分が物凄く大切に想う人にも、同じようなことがきっと出来るはずだから。

自分だけで完結しない世界も有るんだと、私はこれから大手を振って歩いてみようと思う。

長くなったけど、今日はこれが全てです。

また繰り返しこの気持ちを忘れたり思い出せなくなったり迷ったりブレたりどうせ落ち込んだりするんだろうけどさ、それも人間だから、しょうがないなぁと笑って、責めたりせず、上手く付き合って行けるようになるよ。





私の人生は、音楽を作った10年で、こんなに他人にも負けない位誇れるようになれた。

だからこそ、音楽の進んでいく路の先で、必ず出会えるはずだと信じているのです。

私を作った大切な家族、本当に大好き







またこんな風に笑えるように絶対なるからさ


家族のように大切に想う誰かが居る気持ちも、絶対に無くさないで何があろうと持っていく。
誰にも秘密で持ってる。