ゴッホについて | 野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

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ピアノ弾き語り“切実系”シンガーソングライター

ゴッホについて。

私がゴッホと言う画家を意識し出したのはいつ頃だったでしょうか。
去年えいや!と言う気持ちで上野に見に行った「ゴッホとゴーギャン展」で初めてゴッホの絵を生で見ました。
とても心が共振して、食い入るように見つめていた。
恐らく、思い返してみると私がゴッホを好きだと自覚したのは、あるプラネタリウムの期間限定プログラムを宣伝する、一枚のチラシを手に取った時だったと思います。


そこには確か「ゴッホと星空展」のような名前で、ゴッホが心を馳せたであろう彼に由来する星空を連想するプログラムの展示が告知されていて、そのチラシに使われていた絵が、私の一番好きな作品「ローヌ川の星月夜」でした。

まるでゴッホとは思えないような繊細なタッチで、そこには水面に映る灯り、夜空に拡がる星空が描かれており、私はその絵を一目見た瞬間に好きになってしまいました。
澄んだ濃い青と黄色で彩られた清み切った世界の美しさ。とてもとても何選りも、美しい作品です。あんなに美しい作品を、私は他に挙げられません。

ゴッホの代表作と言われる「星月夜」でも「夜のカフェテラス」でも「ひまわり」でもなく、私の一番好きなのが、余り知られていないであろう「ローヌ川の星月夜」と言う所が何とも私らしいと言うか、笑えるなぁと思います。

ゴッホの作品を生で見て、感じたのが筆の息遣い、色を選ぶ繊細さ。人が好きだったんだと感じるユーモラスさ、人物画なんてまるで漫画のイラストのようで生で見てびっくりした。


彼は耳を切り落としたり、拳銃で自殺したりとその人物像の闇の部分に焦点が当てられる事が多いけれど、絵を生で見た時に受ける印象からだと、彼のユーモラスな部分、明るい色調、風景画の美しさ、等全然違う部分も見えて来る。

そして、人生晩年の制作後半期に差し掛かる時期に描かれた作品に宿る、確かな狂気さ。

今年も今の時期にゴッホ展がやっているけれど、これ程もう一度見たい、深く彼の人物像を知り得たい、と思う画家は、私に取って他には居ない。
東京展が終わって、関西の展示まで見に行こうかと考えた程に。(無理なスケジュールなので諦めたけど)

生前に売れた絵は僅か一枚、彼は人生の中で何度も何度も挫折を繰り返している。

自ら耳を切り落とした狂気、私には、ずっと前から、何だか解る気がするのだ。
ゴッホが耳を切り落としてくれていたと言う事実に、救われてしまう気持ちがある。
そうだよね、この長い人生で、やはりそうだよね、狂いたくなるよね、と言う非道く安堵にも似た気持ち。
梶井基次郎の「檸檬」に出てくる檸檬爆弾や「桜の樹の下には死体が埋まっている!」と書いたような気持ち、
芥川龍之介、ノーベル文学賞を受賞した川端康成が自殺する理由に挙げた(川端康成の遺書は残されておらず、芥川龍之介の遺書にあった言葉)「漠然とした不安」に苛まれるようなもの、
追ってくる影のような捕まったら終わりだと言う何だろう、恐怖心かな、日々影のように自分の元へやって来る憂鬱感、言葉にすればそんなようなもの、大仰では無く、誰でも持っているであろうもの、気付かず隠れて影のように潜んで形を現さないかもしれないもの。
見つかったら、認めてしまったら、もう見て見ぬ振りが出来ない人達が確かに居る、そんなもの。


影はひたひたひた、と余り音を出さずにやって来て、ああ後ろまで来なきゃ良いのに、そうなったらどうしよう、と頭の隅に掠める私の元に来て挨拶をする、
やあ、また来たよ、具合はどうかね、調子はどう?
帽子を取って挨拶をする、まるで紳士のように。
さて、これから逃れられないんだよ、と観念するのは私の方だろうか。
影に追い付かれて、私はそれを観念してじっとしている、ああまた動けない、どうしてこうなったんだろう、といつも思う、でもそれは私の弱さが作り出したのでは無かったか?
影はそこに隣に居るだけ、座っているだけ、でも私が、影に見つめられて可笑しい変な気がしてきちゃって、勝手に慌てふためき変な行動を取るのではなかろうか。
影は笑っているのではなく、少し悲しい顔をしている、表情は見えなくても、それは解る。
影は何も私を狂わせたくて側に来ているのではなく、私が影があってもそれを制御出来る位自分を律することが出来るような、鍛を切るのをコントロール出来るような、そんな強さを持って欲しいだけなのだ。
ああそうだね、やっと分かったね、それだよ、僕がここにずっと来ていた理由は、と影が喜ぶ、
そうだね、この部屋に光が当たれば、光が差し込んで当たるようになれれば、僕は溶けて消えるんだ。
それが僕のずっとやりたかったことなんだよ、と影が言って、
影も私自身、自分自身なんだから、それを上手くやっていければ問題ないさ、と思える気がする。


そう言う“危うさ”や“狂気”としか言い様のない、胸に拠り所のない気持ちを人間は心に秘めている、
それに他人を巻き込むことは出来ないから。
作品や芸術や何かを作り出すことに昇華させて、自己のどうしようもない、くすぶって自らが焼け焦げてしまいそうな感情を何とか形作って外に出す、そう言う作業が必要なのではないだろうか。

だから私は、仕事が休みの日に時たま訪れる、影がやって来て飲み込まれそうになる空気の中で、ゴッホの事を考える、
彼の作品を産み出した“狂気”の、誰にも受け容れられない感情の、拠り所の無さから生まれた途方の無い日々を、
生前たった絵が一枚しか売れていないにも関わらず表現・創作し続けた彼の真っ直ぐな一途な想いを、そうせざるを得なかった胸の中の憤りや感情の渦を、
後世彼が亡くなってから彼の命を懸けた作品が正当に評価された流れを見て思うのだ、
大丈夫、だと。
私の心をそれで非道く安堵させようとする。

ぽっかり空いた夜の影の穴も狂気の渦のような力強いタッチも、
四季巡る鮮やかな色の田園や植物の風景画も、
私は同じように等しくそれを愛おしいと思う。

人間は陰と陽、二つが重なりあって必ず出来ているはずだから、私はその二つを等しく愛せるように、表現出来るようになりたい。
明るさも影も、等しく人間を救うはずだから。
光だらけを求められるこの世界の中で、嘘を吐かない影は必要なのだ。

いつ今年のゴッホ展に行こうか、考えておく。

彼の描いた不器用な人間への愛情と優しさ、
綺麗過ぎる星空が好きだ。

この星空を描いた彼の目には、世界は一体どんな風に映っていたのだろう。