雨宮まみさんのこと、「いつか」じゃない「今」のこと | 野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

ピアノ弾き語り“切実系”シンガーソングライター

久しぶりに文章を書いてみようかと思ったら、あれよあれよと感情が涌き出てくるので、慌ててしまい込もうとしても出来なくて、こうして書いてみています。
ご無沙汰しております、野坂ひかりです。

私がブログを更新出来なかった理由は、まあひとえにあの言葉かなぁと思い当たる理由があります。
去年の暮れにある飲み会にお誘いされて行った時に、ある方が私のブログを好きでいつも読んで下さっていて、ある同業者の方に私のブログの画面をスマホで見せた所、「うわっ!!長っ!!こわっ、気持ち悪っ!」と目の前で言われたことです笑
いや~人ってやっぱり人の言葉に傷付くんですよね、言った側は全然悪意無くても。笑
歯に衣着せぬ物言いがその方の魅力でもあるのでしょうが、私の心に知らない内にぐっさりと刺さっていた諸刃の剣は、私の得てしない所で、私の心を蝕んでいたようでした。
それでしばらくブログは書かなかったのです。

しかし今日、久しぶりに発熱した風邪から大分回復したかな、と思って
毎日更新しているTwitterにピアノ動画をアップするプロジェクト #ひかりのピアノ シリーズのゲーム音楽カバーを再開しようかなと思い、
ピアノを弾いたり、家族が皆ごはんを食べに外に出払っていて作り甲斐が無いため、休みだから思う存分寝てしまえ!!と寝ていても頭痛がしてしまって(人はサボっているとバチが当たるらしい)、
ふとTwitterで目に飛び込んできたのは、
ある作家さんの訃報でした。



AVライターでもあったエッセイスト・作家の雨宮まみさんが2016年突然亡くなっていたこと、私は全く知らなかったので心底びっくりしました。
(地下アイドル時代に知り合った地下アイドルでライターの姫乃たまちゃんが大好きなように(彼女もアダルト関係のお仕事もされている)、私はアダルト関係のお仕事をしている方に対して余り偏見は持っていなくて、寧ろ逞しいなぁと感嘆してしまいます)
以前雨宮まみさんの著作「女子をこじらせて」を読んで感動したことをブログに書いた時に、ファンの方から「大丈夫?」とTwitter等でメッセージを頂く機会があり、私は感銘を受けた作品であれば分け隔てなくそれをありのままに書いてしまうと思うし、寧ろ書きたいと思います。(なので今日は雨宮まみさんの著作のことも書きますね~そして私でさえちょっと書いただけでそう言うメッセージを頂いてしまうので、やはり自分で選んでそのお仕事している女子は逞しいし、やっぱりかっこよくて尊敬してしまう…)

彼女の「女子をこじらせて」は吉祥寺のある本屋さんで、仕事帰りにふらりと立ち寄り手に取って、思わず衝動買いしてしまった本でした。

多分同姓だから、物凄く共感してしまう赤裸々な文章。ご自身の人生をここまで書いてしまって大丈夫なのか、と思わせる程ありのままに赤裸々に、その文章に私はとてつもなく勇気付けられ、共感し、感動しました。
(事実この本の「こじらせ女子」と言う言葉がその年の流行語大賞にノミネートされたぐらい、世間から主に同姓の女子から、反響があったようです)

恐らく同姓の、女子だから、女子にしか分からないその強烈な「何か」がその本の中には書いてあったのです。
私も同じく漫画やアニメやゲームが好きだった所謂「オタク」系な幼少期をすごしていたので、雨宮さんも中学生で「アニメージュ」を買っていたくだりには思わず頷きました…。笑
私がコミケに一番行っていたのも、中学生の時だったなぁ。

「女子」と言うのは、難しい生き物です。
少女であり、女子であり、女性であり、そして母にもなれる、しかもタイムリミットや賞味期限なんて、あっという間に、驚く程早くやって来てしまう生き物で、それを世の中の目から示され、それを自分で意識しなくとも抱えて生きていく生き物なんです。
私は、このブログでどうしても子供を産みたかった気持ち
「どうしても子供を産みたかった気持ち、大好きな大切な家族のこと」
と言うブログ記事を以前書きましたが、言葉にして気持ちに真正面から向き合って、きちんと文章にすることで、その気持ちと折り合いを付ける事が出来ました。
今はそのブログ記事を書いた時のような、切羽詰まった感情は持っていないと感じます。

私は漠然とただ子供が産みたかったのではなく、“どうしても”と思うくらい大切な感情が存在していた事に、その事実に行き着いたからです。感情と言うのは、何も自然に涌き出たりはしません。対象との関わり合いの中で、生まれ育まれるものです。
自分の中の感情を見定めることによって、私は自分を理解し、そして自分を許すことが出来ました。

文章と言うのは、言葉と言うのは、そう言う力を持っていると思います。
だから私は、同業者に「気持ち悪い」と言われようとも笑、
自分の感情を言葉にして綴り、「ピアノ弾き語りSSW野坂ひかり」として音楽活動していく機会に恵まれ、発信出来る環境がある今この状況に、自分の言葉としてちゃんと表して、書いていきたいなと思うのです。

何かを“表現”する、“表現者”と言うのは、何かそう言う“性”のような気がします。
大好きな「テガミバチ」を書いた漫画家さんの浅田弘幸さんが、
「漫画家にライセンスはありません。
職業と言うより生き方そのものです。
一日24時間、他のことをしている時も漫画を描く感性で日常を見つめてしまう。
それが自然だと言う君は、本当の漫画家になるしかない。」
と言っていて、「これは正に全ての表現者に通ずる言葉だなぁ!」と感嘆して脳裏に焼き付いているのですが、つまりはそう言うことなのだと思う。

そして、雨宮まみさんの訃報を知って、私は本を読んで「いつか会いに行きたい、会って、“あなたの本の、この言葉に救われました”と目の前で本人に伝えたい」と思ったことがもう叶えられない、それなら、本を買って読んだ直後、調べたらTwitterのアカウントにたどり着いたあの時に、イベントに会いに行っておけば良かったのかなぁ、とぼんやり思ったのです。

私は極度のコミュ障なので、Twitterをフォローするのも恥ずかしくて、「いつかでいっか、まだ大丈夫」と自分の気持ちに蓋をする癖があるので、そんなすぐに会いに行くなんてことは叶わなかっただろうけど、私がその気持ちを持った数少ない表現者の方でした。

「この人に会いたい」なんて心から心底思えることが、その気持ちが消せないことが、この長いようで短い人生の中で、どれ程珍しいことか。どれ程難しくて、どれ程奇跡的なことなのか。

つまりは私もそう、急に居なくなってしまうかもしれないこと。
「いつか売れたら」なんて思い描いていたやりたいこと、やりたかったこと、出来ることが、「いつか」なんて来ない内に終わってしまうかも、絶ち切れてしまうかもしれないこと。
同じように、私を応援してくれているファンの人も、「いつかライブに行けたら」「いつか聞けたらいっか」と思っていて、それが永久に来なくなってしまう可能性も有り得ること。

だから、会いたい内に、逢える内に、会いたい人には、逢いたかった人には、会いに行って欲しいなぁと、逢える努力を怠らないで欲しいと、そして私も会いに行けるように頑張らないとなぁ、と思ったのです。

会いに行けなかったから、雨宮さんの作品の言葉に救われた人間として、今日このブログを書きました。
私もいつかこの世界から居なくなる時、居なくなったとしても、作品は残り続けるんです。
その為に、今、恥ずかしくない仕事をしておかないと、私から産まれてきてくれた私の子供のような“曲”を、曲達のことを、
何とかこの世界で解るように、必要な人の所へ触れてもらえるように、届いて力になれるように、“居場所”を今の内に、ちゃんと作っておかねばならないなぁ、と思いました。
私は私の音楽の、曲の母親にはなれたのです。
すごく好きな人と出逢って、その人の子供を産むことが叶わなかったとしても、この人生、捨てたもんじゃないな、と思えるのは、私から産まれて来た音楽のお陰です。
だからまだもうちょっと、踏ん張って頑張ろう。
結局いつの時代も母は強いものです。

私は母親のように、自分と強い繋がりを持つ存在がもし居たら、自分の人生きっと面白いだろうなぁと思ったから子供が欲しいと思ったんだ、と分かった時、母親と確執があったことも本気で赦せました。
母と喧嘩が多かった高校生の頃、その頃頻繁に、ふと頭の中で繰り返し流れるメロディーがあって「これ何の曲?」と母に聞いたら、「あんたがお腹の中に居た時に歌っていた子守唄や」と言われて、「やっぱりそう言うものなんだなぁ」と思ったことも。


それをピアノで弾いたら、動画を見た中国の方から「とても良い曲で曲名が知りたい」とメッセージをもらったり、最近毎日のピアノ動画でフォロワーさんが増えて、Twitterフォロワーが3000人を突破したり、海外の方も聞いてくれてるんだ、と思うととても嬉しいです。

今日は寝てばかりいたけど、マイペースでも、毎日、自分だけの路を、山を登るために頑張るのだ。



2018/04/07
野坂ひかり