第01話 Vampire House
どこにでもありそうなありふれた住宅街。以前にも来たことがあるかのような錯覚に陥るほどありがちな街の景色。それなのに初めて足を踏み入れて土地勘がないせいか、道を間違えてしまったような不安を抱いた。アスファルトが灼熱の真夏の日差しを狭い道の隅々まで反射させて道に迷った訪問者の後頭部へもいやおうなく照りつけた。陽に透けた茶髪が浅葱色に輝いた。
ジョンスは首筋の汗をぬぐってあまりの疲れに耐え切れず立ち止まって一息ついた。汗でびっしょりの手に握られた地図は本来の質感を失なって、まるで間違って洗濯機に放りこんで一緒に洗ってしまったお札のようにふにゃふにゃになっていた。
「…ったく、とりあえず間違ったみたいだな」
本当に誰でもいいからつかまえて目的地にはどうやっていったらいいのか、ちょっとしたアドバイスでも欲しかった。それなのにこの街はどの家も門を閉ざしていて人っ子一人いる気配がなく、頭がおかしくなりそうだった。ジョンスは不動産屋のおじいさんが書いてくれた大雑把な地図をもう一度よく見てから深呼吸して再出発した。
しかし、たいして進まないうちに再び足を止めた。なんだか同じところ何回もぐるぐる歩いているような気がしてならなかった。長く続く高い壁づたいにもう何十分歩いただろうか、いまだに入口は見えなかった。
ジョンスはその場に立ちつくしてうぅーと声をあげて何度も地面を蹴りつけた。いったいどうなっているのか、同じソウルの空の下ここはどれだけ入り組んでいるのか。まるでクレタ島の迷路を彷徨うテセウスになった気分だ。しかし、ジョンスは生まれつき方向音痴だった。間違いなく住所も正確に書いてあって、説明もしてもらって、数学の問題集にある模範回答の通りにすべて解き進んでいるのに答えだけを導き出せずにいるのは他でもないジョンスのせいだった。
さてどうするか、先の見えない高い壁づたいにずっと歩き続けるか、いっそのこと来た道を戻ってどこかの家の門を叩いて道順を尋ねるかのどちらかしかなかった。
「足痛ぇー」
かかとがスニーカーに擦れて真っ赤に腫れ上がってしまった。道を遠くまで見渡すと先のほうは霧に包まれた森のようにもやっとしていた。ジョンスは不満げに口を尖らせたが、最終的に冒険はしないことにした。元に戻って道順を聞くか、大きな通りに出てタクシーを拾おうと決心して振り返った。こんなことなら最初からタクシーで来たのに。わずか数千ウォンをけちったがためにこんな目に遭うなんて。きっと、タクシーならナビがついている。この複雑で迷路のように入り組んだ道を自在に走るのは簡単なことじゃないだろう。ジョンスはそう思った。
その場でくるっと振り返った瞬間、まぼろしを見たかと思ってとっさに目をこすった。たった今まで通ってきた壁だけの通りに何か違うものがあるような気がした。早歩きで十歩戻って顔を右に向けると、思わず、ふぅ...とため息が漏れてしまった。ずっと長い壁だと思っていたところに実は小さな道が一つあったのだ。奥まってそこだけ陽の差さないじめじめした道だった。
「ここは...間違いなく壁だったんだけどな?」
さっきまでずっとこの壁沿いに歩いてきた。まさか壁が途切れて別の道があるのを見逃したはずはない。ジョンスはあっけにとられて首をかしげ、肩を軽くすくめてその場に立って地図を広げた。そこはまさにおじいさんが言っていたとおり下宿先に続いている道だった。
ああ、バカだ。地図に描いてあるのを見逃してこんなに迷うなんて。ジョンスは自分の頭の悪さにおでこを叩きながらへらへら笑った。そして軽い足取りで暗い路地を進んでいった。
この道に曲がった時から体のほてりが徐々に落ちついていくのがわかった。今年は十年ぶりの酷暑と言われていて、乾燥した空気のせいで汗が遠慮なくだらだらと流れた。しかし、そんな酷い日差しもこの道には勢いが及ばず暑さが和らいでいるようだった。湿気を含んだひんやりとした空気で、走りまわって疲れた子供達が休憩する木陰のようだった。しかし人間の体温は変わりやすいものでジョンスは寒気がしてきてぶるぶると体を振るわせた。半袖のTシャツから出た腕にさーっと鳥肌が立った。さっきの住宅街の雰囲気もこうだったがこの路地に曲がってからは家の一軒も、人影ひとつすらなかった。完全に孤立した秘密裏な空間。ジョンスは不思議な好奇心と恐怖心を同時に感じてまるで何かに誘われるように歩くスピードを速めた。
スーツケースを置いて呼び鈴を押そうと手を伸ばした。呼び鈴は古臭い音を立ててしばらく鳴り響いた。ずいぶん長いこと誰も訪れていない孤島の要塞のようだ。ジョンスは返事を待ちながら、周りをぐるっと見渡した。朝でもなく、スモッグ注意報も出ていないのに一面に霧が立ち込めている。まさにこの霧のせいで真夏なのに歯がガタガタと震えるほど寒いのだ。やたらと霧が濃くなったり晴れたりするのだが、異常気象のせいなんだろうと自分で納得して門の中を覗いてみた。庭がかなり広い家なのか木がうっそうと生い茂っていて建物が見えない。家の持ち主が熱心に庭を手入れしているようだ。きっと庭が林のようにうっそうとしていて、そのせいで霧が立ち込めたりするのかもしれない。
「誰もいないのかな?」
結局、門を叩いてみることにした。鉄格子の正門の真ん中にぶら下がっている丸い取っ手の装飾は性格のきつい彫刻家が作ったものなのか荒々しい顔をしていた。彫刻はオオカミのような気が立った表情をしていて、門を叩く丸い輪を口にくわえていた。輪に手を掛けると身の毛が逆立つほど冷たい金属的な質感にジョンスはびっくりしてぱっと手を離した。なんてこった、ホラー映画を撮影しているわけでもないのに、こんなにびっくりしてひっくり返ったことなんてこれまでなかった。
「この家、なんなんだ?幽霊屋敷でもないのに」
もやもやした気分を振り払おうと決心して、もう一度思い切って取っ手を握ると急に門がギーッという音を立てて開いた。『開けゴマ!』と呪文を唱えたようにスムーズに開く門を見てジョンスは唖然とした。立ち込めた霧のせいで幻覚を見ているようだった。
目の前にそびえる屋敷はこれまでの人生で一度も実際に見たことのない、都心では珍しい様式の家だった。はたしてちゃんと目的の家にたどり着いたのか地図をよく見直してから、ジョンスはゆっくりと屋敷の中に足を進めた。庭には何種類の木があちこち植わっていて、伸び放題という感じだった。林の奥からは正体不明の何かが潜んでいそうな不安感が漂ってきた。林の真ん中には家に続いている小道があった。こんな西洋風の屋敷はテレビで見るだけだった。ジョンスは不思議で目を丸くしてガタガタいうスーツケースを引っ張ってゴシック様式の屋敷に向かった。
時間が経って古くなってしまってはいるが、新築当時はかなり贅沢な造りだっただろう。大きな家の玄関の前に立ってジョンスはまた息を呑んだ。外から見ても尋常でなく大きな屋敷に気が引けてしまったのだ。蒸し風呂のような暑さじゃなければ不動産屋のおじいさんと一緒に一度下見をしておくんだった。とにかく何も考えず勝手に訪れてしまって嫌がられないか不安になった。ジョンスは下唇を軽く噛んでちょっとバツの悪い顔でスーツケースを足でコツコツ蹴って八つ当たりした。門を開けてくれたんだから屋敷から主人が出てくるはずなのに客に勝手に入ってこいとでも言っているようで腹が立った。
「ニャー」
「うわっ!!」
急に猫のなき声がしたのでジョンスは悲鳴を上げてすっころんだ。その場にへたりこんで心を落ち着けてから上を見ると玄関の上の二階のバルコニーから降りてきたのか、ひょっこり猫が一匹現れて毛を逆立ててジョンスを睨んでいた。
「なんだ、猫じゃないか。あー、びっくりした」
たいしたことないじゃないか。ちょっと動揺したが立ち上がって手をぱんぱん叩いた。額の広い灰色のすばしっこそうな猫がぴんと首を伸ばして緑の目でジョンスを憎たらしそうにじろっと横目で睨んでいた。
「ニャオーン…」
こちらの気分が悪くなるくらい高い声を伸ばした。元々猫が好きではないジョンスは立ち上がってふてぶてしい顔で小さな生き物を見下した。猫の方もやはりすぐにでも食って掛かろうかという勢いでまばたき一つせずジョンスを睨みつけた。
「おい、なに見てんだよ?」
言葉も通じない動物に向かって挑発的な口調でケンカを売ると猫はその場に突っ立って微動だにしなかった。ジョンスは緊張の連続に完全に自信を失って、いざとなったらスーツケースも放り投げて逃げ帰る覚悟だった。その時、玄関の扉の向こうから人の気配「が感じられた。
「どなたですか」
助かった。ジョンスはほっと一息ついて自己紹介をした。
「不動産屋のホお爺さんさんの紹介で下宿に来た大学生なんですが」
「あぁ」
そう伝えるとやっと玄関の扉が開いた。開いた扉の隙間から手だけ出して入って来いと手招きをした。するとジョンスより先に猫がするっと家の中に入っていった。なんだ、飼い猫だったのか。ちょっと気に食わなかったがあとに続いてジョンスもズボンについた土埃をパンパンと払って中に入った。目的地につつがなく到着してずいぶん気が楽になった。家に入ると主人の懐に猫がぴょんと飛び上がるのがジョンスの目に入った。猫の動きに合わせて主人の足元から頭をゆっくり上げると一番最初にジョンスの視界に入ってきたのは彼が抱いている猫とその猫をなでている手だった。指にびっちりとはめられた様々な色の指輪が薄暗い灯りの下でギラギラ光っていた。大きな水晶の指輪が青白く見えるほど血の気のない彼の青い指の上で光っていた。なんであんなにいっぱい指輪をはめてるんだ、怪しげに指だけ見ているジョンスを主人は上から下まで不審げになめるように見た。
「名前は?」
「ジョンスです。パク・ジョンス」
急に投げかけられた質問にジョンスはハッと我に返って主人と目を合わせた。その時、ジョンスは奇妙な、とても奇妙なものを感じた。主人の服装がとても珍しいということもあるが何よりもジョンスがギクッとした理由は彼の瞳にあった。彼が胸に抱いている猫の毛色と同じような灰色の瞳に自分自身が映っていたのだ。灰色のコンタクトレンズに首より少し長く伸ばした黒い髪。そして…個人の趣味の範囲を超えていると言ってもいいほど派手なゴシック風の黒い服まで。そこまで把握するとジョンスは驚いて口をぽかんと開けてしまった。そんなジョンスの心の中を読みとった主人はくすっと微笑んで見せた。
「うちの家族も僕がこういう服を着るのを嫌がるんです。趣味が一風変わってる、ってよく言われるんだ。」
「あ…そんな、よく似合ってますよ。」
ジョンスは考えを読まれて恥ずかしくなって耳たぶを触った。そして主人に疑われないように自己紹介をしないと、と口を開いた。
「僕が今日来るっておじいさんがおっしゃってませんでしたか。」
「そういわれれば、そんな気もするな。」
「契約書も持ってきたんですが…ご覧になりますか、ちょっと待ってください。」
しゃがんでスーツケースを開いた。するとどこからか手が伸びてきた。頭を上げるといつの間にか隣にいた主人が左右に頭を振って見せる必要はないと言った。
「ここまで来たっていうのはそういうことでしょ、わざわざ証明する必要がある?」
「ですが…」
彼はすばやく近づいて来たさっきの動きとは違って、とてもゆっくりと後ろにさがった。まるで泳いでいるようななめらかに滑るような歩み。まるで『伝説の故郷』に出てくる座敷童がすぅっと遠ざかっていくのにそっくりだった。ジョンスはゆっくり目をこすった。目の前で起こったことに納得がいかない時にする癖だった。
「契約書はあとでゆっくり見るから、部屋に先に案内します」
主人は猫を床に降ろすとトントンと階段を上った。猫はあっという間にどこかへ行ってしまって、主人は階段を少し上ると振り返ってジョンスに手招きした。階段は踏むとギシギシという音をたてた。それを聞きながらジョンスは自分に言い聞かせた。気分的なものだ、慣れない場所に突然やって来た時の緊張感のような…
ジョンスは主人の軽い足取りを追って階段を一段ずつ上った。黄色く変色しているが花柄が今だにしっかりと描かれている壁紙に一定の間隔で絵画が掛けてあった。あるものは肖像画だったり、あるものは風景画だったり…全体的に多少統一感に欠けるものの一つ一つは収集価値がありそうないい絵だった。しかも最近ではめずらしく燭台が壁に一つ一つつくりつけてあって、白い蝋燭にオレンジ色の炎がゆらめいて主人とジョンスの影を壁面に映し出していた。彼らの影は長く伸びて高い天井まで達していた。螺旋形の木の階段は上るたびにギシギシときしむ音がした。日本占領時代に建てられたものなのか、ジョンスは西洋式の邸宅をすみずみまでよく観察した。こんな独特な家はがこれまでテレビ番組で紹介されていないのを不思議に思った。ジョンスはすぐにこの屋敷の魅力に惹きつけられてしまった。
「不思議ですか」
前を上っていた主人が尋ねた。重いトランクを持って階段を上るのはかなりしんどかった。
「こんな感じの家は初めて見ましたから。まるで外国に来たような感じです。」
周りをあちこち見回していたジョンスがにこにこ笑いながら答えた。
「気に入ってもらえてよかったな。」
「気に入らないはずないじゃないですか!ソウルからこんなに近いところで閑静な下宿を探すのは難しいんですよ。しかも家も大きくて家賃もやすくて…」
「ちょっと事情があって急いでたんでね」
「でも、何があって募集をかけたんですか」
少々立ち入ったことを訊くようで気恥ずかしかった。あっという間に階段を上り終えて二階の奥の部屋の前に到着した。主人はドアノブの鍵穴に鍵を入れる前に首をかしげた。
「品位維持費っていうとわかってもらえるかな」
「品位…維持費ですか」
ジョンスはすぐに納得した。家の主人がゴージャスなものが好きなのなら色々と揃えるのにとんでもなく費用がかさむだろう。彼はドアを開けると鍵の束をガウンのポケットにしまった。長い間使っていなかったせいか扉を開けると大きな音がした。
「客間の中で一番広い部屋です」
屋敷全体が昼間なのに厚く重い冬用のカーテンに包まれて、ありえないほど真っ暗だったのに突き当たりの部屋はもっと酷かった。まるで深海の底のようにすぐ目の前にあるものも見分けがつかなかった。主人が持っていた蝋燭を部屋の中に置くと家具が徐々に目に入ってきた。ジョンスはもっとはっきり見たくて壁のスイッチを手探りした。主人は燭台をチェストの上に置いてその横にあるスイッチを押した。しかし、ライトはつかなかった。
「おかしいな。ちゃんと準備しておけって言ったのに」
「なに、大した事ないですよ。この家に住んでればそのうち暗がりに慣れるだろうから」
スイッチを何度か押してもうんともすんとも言わないので肩をすくめて堂々と言い切った。
しかしジョンスはこの家の陰鬱とした感じがあまり気に入らなかった。
「…明るいのはお嫌いなんですか」
「うん、視力が少し弱くてね。明るいと目を開けられないから。瞳を見てみて。日光にやられちゃったんだ」
コンタクトをしていた訳じゃなかったんだ。灰色の瞳を見てジョンスはすぐに頷いた。全体的に青白い彼の顔色を何かの病気を患っているのだと推測した。病気の人は生命力に溢れたものだとか、明るいものを嫌がるものだ。ジョンスは彼が暗がりを好むのも仕方がない、と得意のポジティブシンキングで受け止めた。
「エジソンが電気を発明する前の時代に暮らしてみるのも悪くはないですよね」
「確かに、あの時は本当にすごいことだったね。ニュージャージーの全部の町に電灯が設置されて、夜暗くなると明かりをつけるんだよ。小さな太陽を作ったみたいに明るかったな。あぁ、あれは19世紀のことだったからもう100年以上も経ったよね?」
彼はまるでその時代を生きてきたかのような夢見がちな声だった。
「あいつが電気さえ発明しなかったら…人間達が暗闇を怖がらなくなることなんてなかったのにな」
急に大声を出した。
「あの…?」
ジョンスが口ごもっているとハッと我に返った主人は急いで廊下に置いてあった蝋燭をいくつか持ってきた。蝋燭を部屋の中に灯すといっそう明るくなって部屋の全貌が姿を現した。
「わぁ…」
「どう、気に入りましたか」
ジョンスは瞬きするしかできなかった。これまでたくさんの下宿やワンルームを転々としてきたがこんな色合いの部屋は初めてだった。自炊の悲哀、下宿の逼迫…そんな事とは全く無縁の静かで暖かい自分だけの空間。ジョンスはすぐにここをマイ・スイートホームと名付けたくなった。
かなりゆったりとした正方形の部屋の中には白いシーツが敷かれたシングルベッドが一つと十分な大きさのクローゼット、加えてロッキングチェアまでおまけでついていた。家具には埃が積もっているだけで全体的にきれいだった。ジョンスの好みであれこれ揃えればすぐにでも夢に見たスイートホームが完成しそうだった。ただ一つ、納得いかないとするれば窓だった。
「どうして窓に釘を打っているんですか」
「それは、」
「使ってない部屋だからこうなってるんですよ。あ、昔は…この家の持ち主がこの窓から飛び降りて自殺したとか。違うな、倉庫に使っていたんだけど泥棒が入るかと思って釘を打ったみたいだね。それでもないかな、家を建てた人が元々窓を作ろうとしたわけじゃないのに間違ってここに穴を開けちゃったみたい。あ~、よくわかんないや」
彼はそれまでの態度から変わってちょっと口ごもって適当にやりすごそうとした。
「開けないでください。絶対に」
でたらめな話を終えるときつく言い放った。
「はい?はぁ…」
「それと昼に家にいるときは絶対カーテンを開けないでください。とにかく、光が入ったらだダメだっていうことです」
彼は神経過敏な病人のように部屋の中をあっちこっち行ったり来たりして規則を口早に伝えた。
「ジョンスさんが部屋の中で何をしても関係ありません。但し、日光を入れることは許されません。あ、それとそうですね。あの上!!」
主人は窓の外を指差した。どう考えても窓の外に見える屋敷の端を指差しているようだった。
「この屋敷の端に塔が一つあるんですが、そこには絶対に登らないで」
「なんでですか」
「なんでかって?なんでかって言えば…そこはうちの金庫だからです。大切なものがいっぱいあるので自分でもあまり行かないようにしてるし。ねずみ一匹でも入り込んだら大変なことになるから」
ジョンスは矢継ぎばやの説明にまるでお人形のように頷くことしかできなかった。昼にカーテンを開けるなということと塔に登るなという二つの説明を除いたら残りは重要でない取るに足らない条件だった。しかし、その二つの決まりは絶対に破ってはいけないという禁止事項で何度か繰り返し確認したものだった。この家の不思議な雰囲気に適応するためにジョンスは主人の不思議な精神世界を理解しようと努めた。ジョンスは主人の言うことを必ず守ると約束した。
「それじゃ、疲れたと思うから休んでください」
「あ、ちょっと待ってください!」
主人は妙に生気の薄れた瞳でジョンスを静かに見つめた。ジョンスはゴクッと唾を呑んだ。
「すみませんが…まだお名前をお聞きしてないんです。なんとお呼びすれば…」
慌てていたせいでやって来てからこれといった呼び方をしていなかったのだ。すると主人の口に笑みが浮かんだ。
「そうだな。名前があまりにも多くて」
すると腕組みを解いて片方の手であごの辺りを掻いた。天井を見つめて悩んでいる姿はたった今、自分に名前をつけようとしているようだった。ジョンスが彼の予想外の行動に唖然として眉間にしわを寄せた。
「韓国での名前はヒチョルっていいます」
「あ、はい…ヒチョルさん」
彼はもしかしたら外国生活をしていたのかもしれない。ジョンスは彼の年齢も気になったが答えを聞くのにまた何分掛かるかわからないのでやめておいた。なんとなく自分と同じ年頃に見えたし、とりあえずこの家が気に入ったので少しずつ訊いていくのも悪くないと思った。
「ところでさっきご家族もいるっておっしゃいませんでしたか」
「もちろんですよ。さぁ、挨拶させますから」
ヒチョルはくりくりした目でじっとジョンスを見てくすっと笑った。暗闇の中で彼の歯が異様に光っていた。ヒチョルはドアを静かに閉めて出て行った。すると緊張が解けたジョンスは足の力が抜けてよろよろと歩いてベッドに横たわった。窓がなくてちょっと窮屈かもしれないが大丈夫だ。天井がこんなに高いんだから。
夜には荷物を整理しないと、と思って携帯を取り出した。地方にいる両親に新しい家に到着したと連絡をして、何人かの友達にソウルに戻ってきたとメールを打とうとしたがやめてしまった。引っ越して早々呼び出されて飲み会に行くにはちょっと疲れていた。何よりも屋敷のあちこちを見て回りたいと思ったのだ。博物館とかあるいは昔の宮殿を探検するようにわくわくした。ジョンスはベッドに寝転がったまま伸びをしてすっきりすると、ふと寒気を感じた。今が真夏だということをすっかり忘れていた。
「冷房入れてるのかな?何でこの家はこんなに寒いんだ」
結局、寒さに耐えられず布団をかぶってへへっと笑った。屋敷の主人ヒチョル。敬語を使わなかったのはひょっとしたら元々そういう性格なのかもしれないし、仲良くなろうという意思表示なのかもしれない。また、もしかしたら元々横柄な性格なのかもしれない。まるで飼っている灰色の猫のようでもあった。そして彼が言っていた家族というのはどんな人達なのか、急に心がくすぐられた。
→Vampire House 2話-01を読む