5月中旬を過ぎて、

繰り上げではあるけれど、満中陰(忌明け)の法要を終え、弔いの儀式は一段落。

これによって、少なくとも週1回はあった住職や訪問客などの応対はなくなった。

新型ウィルスと親族の高齢化によって、すべて小規模だったけれど。

 

後処理もほぼ終わった。

とにかく手続き手続き手続きで4月中には終わらず、

5月に入っても未だ母の名前の郵便物が届き続けていた。

 

ただし、母の場合、未だ助かったということが三つある。

一つは、主たる世帯主ではなかったということ。

土地や家屋などの生活基盤となるものの名義は父であり、

それに付帯する光熱水費関係もすべて父の名で契約している。

ゆえに名義変更のようなものは、ほとんどなかった。

もしも父だったらと思うだけでゾッとする。

さらには、働き盛りでの世帯主の突然死などを察すれば、

まだまだ楽だったのだと、思う。

 

二つは、長寿で療養期間が長かったこと。

言わば、母は徐々に老いて弱っていったので、

その時々に合わせて、少しずつ生活を縮小できていた。

例えば運転免許証。

認知機能も身体機能も衰えが見え始めた頃、すでに免許は返納していた。

最初、僕や父が返納を提案した時、本人は納得がいかずに拒否したけれど、

説得と衰弱の猶予期間があったゆえ、生きているうちに済ませることができた。

同じように、あれやこれやと生活を便利にするためのもの、

クレジットカードや定期購入契約などは徐々に閉じてあったから、

それらの手続きをまとめてやらなければならないということはなかった。

 

三つは、家族不和がないということ。

相続で揉めるのは昔からよく聞く話。夏目漱石の生い立ちとか犬神家の一族とか。

少しばかり残してくれた遺産、生命保険や通帳の残高整理の手続きには、

相続人のサインや押印が求められたり、

それをどう受け取るかなどを決めたりしなくてはならない。

母の場合、父と姉と僕になるのだけれど、

ここが不仲であれば、そりゃ何倍も面倒なことになるわなと、

相続代表人として手続きをしながら、想う。

 

 

新しい仕事がゴールデンウィーク明けから本格的に始動し、

そちらに精力を注いでいたので、最終のまとめが書けずにいた。

なんせ、4月1日付で雇ってもらったのに、

1週間も経たずに慶弔休暇をもらわねばならぬという残念な社員。

しかも、雇ってもらう際に、

「母の具合がよろしくなく、もしもの時は一月ばかりまともに働けなくなるかもしれません」

と残念過ぎるお願いをするという困った社員。

にも拘らず、僕の抱える事情を受け入れてくれて、

「その際は、そちらを優先してください」と快諾をもらった上、

葬儀には献花まで出してもらい、さらにはオーナーご夫妻で足を運んでもらうという、

今の世の中では信じ難い程の厚意を受けたのだから、

それに応えずして、僕は人の道を歩けない。

 

縁に感謝。

信じてもらって働けるって、本当に有難い。

これからもしばらくは業務に尽力するゆえ、更新が滞るかもしれない。

 

 

最後と言っても、もうほとんど書くことはない。

葬儀についての詳細など、もう書く必要もない。

きっと母は、何か別の事案を書こうと思った時、再び現れるに違いない。

彼女は、世界にただ一人、これまでもこれからもただ一人の、

僕の母親だから。

 

 

母の遺物を片付けていた際、

山と積まれた、と言うか、山と詰め込まれた書類の処分に閉口した。

リビングの書棚から押し入れ、さらには彼女の宝物庫と、

使わなくなった鞄や段ボールに押し込まれた書類が、

ちょっとした暴動なら防げるくらいのバリケード状に積まれていたからだ。

 

最初は、ゴミ屋敷掃除のTV番組のように、

洗いざらいをゴミとして処分してしまえばいいと思っていた。

当然ながら、彼女の溜め込み癖やバリケードの存在は、

彼女が生きている時から僕の眼前に存在していており、

その忌々しさはもうずっと続いていた訳で、

母が死んだ暁には遺物整理の業者でも呼んで、一切合切を捨ててやろうと思っていた。

 

と思いながら、

業者に頼む前に少しばかりは自分で手を付けてみるかと、

昨年末の片付けを始めたのだけれど、

その少しばかりで血の気が引く羽目になった。

彼女が働いていた時の仕事関係の印刷物、未開封の定期購読誌、

裏が白いチラシ、貰い物の包装紙、使いかけのポケットティッシュに紛れて、

保険証書や現金が入った紙封筒の類が出てきたのだ。

 

彼女の「大事なもの」は、ストライクゾーンが海よりも広い。

それは重々知っている。

だがしかし。

これは酷いにも程がある。

裏が白いチラシと保険証書を並列の価値にすな。

 

このバリケードを全部目を通しながら崩していかねばならんのかと思った時、

血の気が引く音を聞きながら、今にも心が折れる音をセッションしそうになったのは、

言うまでもない。

結果、一月以上の時間を要しながら、

1万、否、10万分の1にも満たない救済すべき「大事な書類」を選り出して、

僕は鉄壁のバリケードを突破したのである。

 

 

そんな書類の中に、小さなメモ用紙の数枚の束を発見した。

そこには、字の綺麗だった母が書いたとは思えない、

マジックで走り書かれた乱雑なメモが書かれていた。

出だしは、

「左胸が痛い。AM3時」

だった。

 

続いて書かれていたのは、

「印カン 小さい黒いサイフの中」

続けて、通帳やら現金やらの保管場所が書き殴られていた。

そして、姉夫婦、僕夫婦、父への分配が記されていた。

 

推測するに、どうやら15年程前に書いたであろう遺書だった。

夜中に胸が痛んで、とっさにメモを取ったのだろう。

乱れた文字で、とにかくお宝の在り処を伝えてある。

うむ。まずはお宝を伝えなければならないあたり、

取っ散らかしてることをヤバいと自覚していたに違いない。

まったく困った人だと思いながら、その続きを捲った。

 

「長い間 勝手させてもらって ありがとう。

 悔いのない人生でした。

 自分の好きにさせてもらったこと 感謝しています。

 (実家)(住所)(姉の夫の国)しんせきの人

 近所の人 (仕事関係の人) (職場の子どもたち) (仲の良かった人)ありがとう。

 楽しく仕事をさせてもらいました。

 支えてくれて ありがとう。

 (長女)のところへ行きます。

 (父)さんへ 早く良い人みつけてネ。

 (姉の長男)(姉の次男)(僕の長男)(僕の次男)

 じいちゃんみたいに やさしく元気な子に育ってね。

 

 じいちゃんへ

 捨てる前に値打ちのわかる人に確かめてね。

 (姉)へ

 (僕夫婦)といっしょに片付けてネ」

 

ならば良かった、と思った。

そして、ツッコミどころも多々あるなぁと笑ってしまった。

早く良い人って、15年前でも爺様は70歳くらいだって。

片付けは俺が一人でやったって。

てか、この段階で思ってるんなら15年のうちに片付けとけって。

 

僕はガラクタの中から発掘したこの一片のメモを、

大事なものとして分類し、母が亡くなる日まで保管していた。

そして葬儀の日、父に見せてやった。

父は一読を終えると、嬉しそうに、

「ならば良かった」と泣き笑いした。

 

 

葬儀の最中でも、その後でも、

母は優しかったなぁなんて思うと、前が見え難くなってしまうので、

母は面白かったなぁと思うのが僕には向いている。

なぜなら彼女は、

泣いている人よりも笑っている人を見ていたかったのだから。

そして、誰かが笑っているのを嬉しそうに見つめながら、

いつも微笑んでいる人だったのだから。

 

じゃあね。バイバイ。

 

 

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