涙が止まらない。
【ポジティブの教科書】の読者の方から、出版社への一本の電話
本の担当者Facebookから
「 「武田先生ですか?」
先日、読者の方からお電話があった。
嗄れているが大きく響く低音が受話器から聞こえる。
年配とおぼしき男性の声に、クレーム? と思わず身構える。...
「いえ、ポジティブの教科書の担当の者ですが。どうされましたか?」
恐る恐る尋ねた。
「うちの孫がね、あ、Aっていうんですが、ポジティブ? 読んだわけです」
「はい」
「Aは高校1年なんだけど、留年していて本当なら3年生。18歳。引きこもりで、全然行っていないわけですよ、高校に」
「はい」
「それが、年明けてから急に行きだしましてね。嬉しいけど、何があったかって、
こっちは驚くわけですよ。だって、入学式さも出ねぇで……っていっても、あん時はそれどころじゃなかったんです、震災で」
「震災? 3年前だと、そうですよね」
「私の娘とさ、孫娘、津波でやられちゃったわけです」
「え? ……東北の方ですか?」
「そうです。うちはBなので大丈夫だったんですけど、娘の家はCにあって。あの辺りはのきなみやられて、何もなくなってしまいました」
「それは……お辛かったですね」
「娘と孫娘、まだ小学生だったんです」
「……」
「だから、Aが引きこもりになっても何も言えなくってね」
「A君は、お母さんと妹さんを亡くされたんですね?」
「そうです。明るくていい子だったんだけどあれ以来、全然、喋らなくなって」
「お察しします」
「だから、今年んなって急に学校行きだしたからびっくりして。嬉しいんだけど、どうしたもんだろうってずっと思ってて」
「はい」
「ようやくね、訳を聞いたんですよ、この前。そしたら……」
学校の先生や友達が引きこもりのA君に3年弱の間、メールや手紙、本、音楽のCD、映画のDVDを贈り続けて励まし続けてきたという。
それでも、A君の心は閉ざされたままだった。
3.11にお母さんと妹さんを亡くされた悲しみは計り知れない。
それだけに叱ることも出来ず、今までずるずるときてしまったという。
それが突然、年明けから学校に行きだしたA君。
最近、お祖父さんが訳を聞くと、年末に幼なじみから贈られた一冊の本を見せてくれたという。
「ポジティブの教科書」
「Aがね、『自分が生きていることに感謝しなきゃ』なんていうんですよ。ずっと、ろくに喋らなかったやつが」
「はい」
「しかも、『じいちゃん、生きていてくれてありがとう』って、言ったんですよ……」
涙声でしばらく言葉が続かなかった。
「……私ら、年寄りは、なんで生き残ってしまったのか、代われるもんなら、死んだ若い人たちと代わってやりたいって、みんな思ってました。どこかで後ろめたさもあって、生き残ってしまったことの……」
以前、被災地を取材した際、難を逃れた高齢者が自らを責めるサバイバーズ・ギルドという症状にあることを知って驚いた。
そのやりきれない気持ちが甦った。
「だから、なんだか救われたっていうかね。老い先短い老いぼれだけど、
長生きしなきゃって思えました、震災以来初めて」
お祖父さんも「ポジティブの教科書」を読んでくださったという。
自分にだって幸せなことがある。
自分にもできることがある。
だから、人のために生きよう。
それに気づけたことが嬉しかった。
その思いを伝えたくて電話を下さったそうだ。
「武田先生は若いのに、立派ですね。Aも私も本当に感謝しています」
「……」
受話器を持つ僕の手は震え、言葉が出なかった。
「本当は手紙でも書きたかったんですが、私、学がねぇし、自慢じゃないけど字が下手でね。電話のほうが早いと思いましてね……」
何度も何度も感謝の言葉を述べるお祖父さん。
その何倍もお礼を言いたいのは僕の方だった。
でも、声が声にならなかった。
気を許すと、嗚咽が漏れそうで必死に堪えるしかなかった。
震災から間もなく3年。
お二人が新たな扉を開けるタイミングに重なったのだろう。
きっと、違う本でもお二人の心に響いたかもしれない。
もっと大きな感動や気づきを与えていたかもしれない。
ただ、それがたまたまだったにせよ、自分が手がけた本だったことは、何よりも嬉しく、そして誇らしかった。
この本を作ってよかったと心から思えた一本の電話。
この仕事をしてきて、最も幸せな瞬間だった。」
双雲@感謝の言葉しかでてきません、、
はやくも6刷、ありがとうございます
【ポジティブの教科書】