現代の産業社会が誇りとしているのは、何百万という人間がなまやレコードの優れた音楽を聞き、国中の多くの美術館で芸術を見、プラトンからラッセルに至るまでの人間味豊かな文学の傑作を、容易に手にはいる廉価版で読むための機会を持ち、また実際にその機会を利用しているという事実である。たしかにごく少数の人間にとっては、この芸術や文学との出会いは本物の体験である。だが非常に多くの人々にとっては、〈ほんとうの〉絵を見ていること、〈ほんとうの〉音楽を知っていること、良い本を読んでいることなどが大学教育を受けたことを示し、それゆえに社会のはしごを登るのに役立つものである限り、〈教養〉もまた一つの消費物資であり、地位の象徴である。最高の芸術も消費物資に変えられてしまったわけだ。 (エーリッヒ・フロム『希望の革命』より引用)


多くの人々は冒頭のエーリッヒ・フロムの文章にもあるとおり消費をするだけなのである。

シャープの液晶テレビでめざましテレビを観て、日経新聞を読み、デルのPCで仕事をする。DoCoMoの携帯電話で話し、スターバックスのコーヒーを飲み、ローソンで買い物をする。帰宅してからユニクロの部屋着に着替えて、月9ドラマを見て、休日はプリウスでドライブする。

それぞれの商品や各々の消費行動そのものを否定するつもりはない。ただし、その消費主体の生活の中でどれだけの人間が高付加価値なものを創り出しているのだろうか?世の中に溢れている高付加価値を消費するだけで、それを創造しない生活が果たして楽しいだろうか?

それで満足するという人は今の生活を変える必要はないだろう。自らに与えれた仕事を着実にこなし、その対価として得た給料の範囲内で消費生活を楽しめばよい。

でも、少なくとも自分はそんな生活に満足することはないのである。自分の人生や仕事において明確な志を持ち、それを果たすという生き方をしたい。単純に何かを消費するのではなく、消費したものの中から何か高付加価値な物を創り出したい。

その高付加価値な何かを創り出すための思考の整理を試みるのがこのブログの役割である。ビジネスマンの視点から政治、経済、社会、文化について自分の思考を文章化することで、単なる受け売りではなく自分自身の考えを確立するための場としたい。

常に自分自身の「良心」や「良識」を重視したいため、ブログのタイトルを"My own Conscience"とした。"My own Conscience"と"Your own Conscience"は時に共存し、時に対立するものだと考えている。

人間というものは弁証法的に発展してきた生き物であるから、コメントを通じて多くの人の"Your own Conscience"を表現してもらえると助かる。弁証法的な試みがきっと"Human Conscience"を高め、より高付加価値なものを創り出すと信じてる。