有給休暇を取った日にたまたま村上春樹の最新作である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が届いた。手元に届いてから24時間もしないうちに読み終わり、レビューを書く本というのも稀だろう。あらかじめ書いておくが、私は熱狂的な村上春樹ファンというわけではない。そもそも文学作品はほとんど読まない方であり、これまで読んだ文学作品など数えるほどである。ちなみに、なぜ私が文学作品をあまり読んで来なかったかという点には明確な理由がある。この点についてはいずれ書きたい。

本書は話題作であるがゆえに、他の人のレビューといういわば「雑音」が目や耳に入ってくる前にレビューを書いておきたい。もちろん、私自身のレビューにもネタバレが含まれることを予めお断りしておきたい。作品そのものを、できるだけ先入観なしで楽しみたい方は今すぐここを立ち去ることが懸命だろう。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/文藝春秋

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あらすじを最も端的に表しているのがタイトルであると思うが、もう少し付け加えるのであれば次のようになるだろう。表面的な意味でも、内面的な意味でも「色彩がない」と自分を認識している多崎つくるは大学2年の夏に、高校時代の親友グループから突然「追放」され、以降「疎外」を強めてしまう。16年後、年上のガールフレンドの木元沙羅にその「追放」と「疎外」の話をしたことから、その理由を知るための、いわば「巡礼」の旅を始める。

それを意図しているか否かは分からないが、本書の着想にはいわゆる「ジョハリの窓」が関係しているのではないかと思わせた。「私たちはみんないろんなものごとを抱え込んで生きている」というクロの言葉にも表れているが、それぞれが「抱えたもの」の認識は、各自で微妙に、あるいは大きく異る。

本書の前半部分では、もっぱら多崎つくる自身の認識、言わば彼自身の「歴史」を語ることに終始している。「ジョハリの窓」で言えば、「開放の窓」(Open Self)と「秘密の窓」(Hidden Self)にあたる。沙羅の進言を受けて、つくるが「巡礼」の旅に出ることで徐々に16年間彼にとって「謎」であった「歴史」が、「ジョハリの窓」で言えば「盲点の窓」(Blind Self)が明らかになってゆく。

つくる自身は「巡礼」を始めるまで、自分自身が名前においても、実体においても、「色彩を持たない」(個性を持たない)存在であると認識している。特に親友グループからの「追放」以降、「巡礼」に至るまでは、自分自身の手で限りなく「無色」に近い存在へと変えていった。余談だが、著者はこれを多崎つくるではなく「多崎つくる」としているのだが、この表現方法は先日私が書いた「私は「私」を殺すことにした、「私」に私を殺されないために」という文章に似ている。

「巡礼」の旅を始め、かつての親友たちと再会する中で、彼は16年間にわたって抱き続けた「謎」を解き明かすと同時に、親友たちにとっては彼が高校時代から「色彩を持つ」存在であったという点を確認することとなる。「ジョハリの窓」で言えば、「盲点の窓」を覗きこむことになる。この「巡礼」を通して、つくるは高校時代、大学時代には決して気付くことのなかった、「色彩を持つ多崎つくる」を取り戻し、深化させてゆく…。

本書を読んでいて、冒頭から最後まで一貫して感じたのは、多崎つくるという人物は非常に感受性が強く、常に相手がどう考えているかを考えようとする、文字通り「優しい」(それは「人を憂う」あるいは「人が憂う」と書く)人間であるという点である。その「優しさ」こそが彼の「色彩」(=個性)なのであるが、その「優しさ」ゆえに彼は16年にもわたる「傷」を受け、苦しむこととなったとも言える。

多崎つくるが持つ「色彩」は、「無色」というよりは「多彩」という「色彩」なのではないかと思う。彼は自分自身を「空っぽの容器」と揶揄したけれども、他人の持っている「色彩」を受け入れることもできるし、拒絶することもできる。(この「拒絶」した時が「多崎つくる」なのだと思う)。村上春樹は、おそらく「多崎つくる」と「多彩つくる」をかけているのではないかと私は邪推する。

本書の中で、私が最も印象に残ったのは、「私たちはみんないろんなものごとを抱え込んで生きている」というクロの言葉だ。本書では5人の友人グループが舞台であるが、我々の営む実生活においてもそうであろう。そしてその「いろんなものごと」の全てを共有できる他者などおそらくは存在しない。それが、家族や恋人という比較的結びつきが強い存在であっても、である。

しかし、他者に理解してもらうために様々な表現を通じて伝えることができる。多くの場合、それは「言葉」であると思う。多崎つくるは、16年にわたって必要以上の「言葉」を駆使しなかったし、それゆえに「謎」や「誤解」が解けることもなかった。「巡礼」においては、「言葉」を交わすことによって「謎」が解き明かされ、彼の負った、そして彼が友人たちに与えていたであろう「傷」もおそらく少しずつではあるが癒されていったのである。

本書にはなお「謎」に包まれた部分が残されている。つくると沙羅のその後も気になるところであるが、途中で突如消えてしまった灰田についてである。灰田が消えた「謎」が残る以上、つくるの「傷」は完全に癒えてはいないし、より完全に近い形で癒えることはないのだろう。しかし、「謎」の残らない人生などない。自分の人生で起こったことを全て、完璧に説明がつくなどということはありえないのである。

そう考えると、いくつか「謎」が残されたまま物語が完結した方が、余韻を残し、読者の想像力をかき立ててかえって良いのかもしれない。物語に散りばめられた僅かな痕跡から、読者が想像力を元にして結末を創り出す。そう、それは古いフランス映画のように…。


【加筆】
世間一般の本書の捉え方は「自己回復」や「人生を取り戻す」というもの。私は「色彩を取り戻す」という表現を敢えて使いたい。なぜならば、多崎つくるが「色彩を持たない」と認識していたとしても、彼の周りの登場人物も読者である私も彼の中に「色彩」を感じたため。

そんなことを考えていて思い出したのが、青山真治監督の映画『EUREKA』(2000年)。この映画はラストシーンになるまでモノクロが続くのだけど、その理由は主人公の梢(宮﨑あおい)の心が閉ざされているから。(梢はラストシーンまで一切の言葉を発さない)。「色彩の回復」というテーマにおいて少し類似性があると考えた。