4月14日付の朝日新聞朝刊に、先日発売された村上春樹の最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評が掲載された。早稲田大学教授で、批評家の肩書きを持つ加藤敦によるものであるが、「評論」や「批評」の体をなしていない極めてお粗末なものである。これに先立つ4月12日には同紙電子版において吉村千彰編集委員が「超速レビュー」と銘打って書評を行なっているが、こちらも「評論」や「批評」とは程遠い、極めて残念な内容であった。

加藤、吉村両氏の「書評」に共通する点であるが、あらすじと村上の執筆経緯に触れているだけで、いずれも書評と言うよりは「広告」と表現するのが適切なものであった。少なくとも私が小中学生の頃に、彼らのような文章を「読書感想文」として提出しても、教師からあまり良い評価はいただけなかったのではないかとすら思う。

そもそも「評論」や「批評」というものを辞典的な意味で捉え直すのであれば、下記のようになる。(引用はいずれも、『新明解国語辞典』による)。

評論:(専門の分野や社会の動向などについて一般読者を啓発するために)自分の意見を加えながら解説すること。

批評:物事の良い点・悪い点などを取り上げて、その物の価値を論じること。


私自身の「評論」や「批評」の捉え方は、評論家や批評家といった評者が、彼らが現在までに築いてきた価値観や審美眼を通して、作品そのものを評価することであると考えている。それぞれの評者は異なった「知的後背地」に基づいて自由闊達に作品を評価すべきである。

ところが、「批評家」を自称する加藤の「書評」も、「編集委員」(おそらく書評欄担当だろう)の肩書きを持つ吉村の「書評」も、「自分の意見を加えながら解説する」ことがほとんどなされていないし、本書の「価値を論じること」もなされていない。あらすじを丹念に書いているだけであって、少なくとも今回の彼らの「書評」と称する文章を読む限りにおいては、彼らに読解力や編集力というものが本当に備わっているのかも疑わしくなった。

今回の朝日新聞の「書評」を読んでいて非常に残念だったのは、そもそも「書評」や「批評」に値しない文章が「批評家」や「編集委員」に執筆されたことだけではなく、それが大手紙の電子版なり紙面に公表されてしまっているという点である。記者によって間違った記事が書かれたのであれば、編集サイドでそれを紙面に反映しないという措置が講じられるのが常であるが、朝日新聞は今回それを行なっていないのである。一体、この新聞社のチェック体制はどうなっているのだろうかと非常に腹立たしかった。

毎週全ての書評に目を通しているわけではないが、今回のように「話題作」の「広告」的な「書評」というのは決して少なくないだろう。評者の「知的後背地」を意識できないような書評は、あまり真剣に読む必要もないというのが、今回の一件でよくわかった。

逆に、大手紙の書評ではなくとも個人のブログレベルで非常に質の高い書評が書かれている場合もある。今回の作品であれば、極東ブログなどはまさにこれである。過去の村上作品との比較も丹念に行われており、「書評」の書き方としては私にとって理想的な構成となっている。

「極東ブログ」の執筆者は冒頭で、「きちんとした書評を書くにはまだ読み込みが足りない」としており、率直に即席的な読後感であることを認めている。一方で、「だが、普通に面白かった。普通というのは、村上春樹ということを意識しなくても読めるし、彼の過去の作品群を知らなくても普通に読んで面白い小説だということ」という点などは、実に面白い一文である。「村上春樹の作品だから面白い」のではなく、1冊の本として「独立していても面白い」し、「村上春樹の作品の集合としても面白い」ということである。

「極東ブログ」では、この2つの見方から書評を行なっている。この「2つの見方」ができるのは、村上春樹シリーズを相当読み込んでいなければおそらく不可能である。私の場合は、村上春樹シリーズのほとんどを読んだことがないので、この「垂直比較」とも言うべき比較方法、つまり同一著者を他の作品と比較する評論方法を採用することができない。

とりわけ多くの読者の目にふれることになる大手紙の書評でこそ、「極東ブログ」で展開されたような書評が展開されるべきである。評者の構築してきた価値観や審美眼に基づいた評論や批評を、極めて少ない文字数で表現するというプロフェッショナリズムを十分に発揮していただきたいのである。

ちなみに「批評家」や「編集委員」の「書評」を批判するだけではあまりフェアではないと思い、自分自身でも「書評のようなもの」を書いているので参考にされたい。(4月13日付記事「「彩り」の発見」)