先日書いた「「彩り」の発見」では、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』において灰田が突如消えたこともまた「謎」であり、この「謎」が解決されていない限り、つくるの「傷」は完全に癒えることはないと考えた。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/文藝春秋

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「謎」の残らない人生などないし、「傷」のない人生なんてものもきっとない。もしも自分の人生を振り返って、「謎」も「傷」もないと思うのならば、それはただ単に「謎」や「傷」を見落としているだけのことであると思う。長い時を経て「謎」が解明できたり、「傷」を癒すことができることもあれば、長い時を経ても「謎」が「謎」であり続けたり、「傷」が「傷」であり続けることもある。そして、「謎」や「傷」をあえて意識しないということだってあるだろう。

「灰田」という人物の本書における役割というのは、解決できない「謎」、癒えることのない「傷」というものを象徴したかったのではないかと考える。「シロ」は死に、「クロ」は生きているが、「シロ」と「クロ」の中間の「グレー」は、その消息すらわからない、まさに「灰色」の状態としたかったのではないだろうか?

物語の中であえて解決しないことで、熱心な読者はこの「謎」について考え続ける。人によっては、本書で投げかけられた「謎」が、自分自身の人生における「謎」になる人だっているのかもしれない。この「行き止まりのある伏線、あるいは行き止まりのない伏線」とでも表現すべき書き方は非常に面白い。それはもしかしたら高度な「技法」などではなく、単に著者による「遊び」なのかもしれないが…。