この曲を聴くと、革命を達成できない。

ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『熱情ソナタ』を聴いたレーニンは、その旋律の美しさのあまりこのように「批判」したとされる。素材そのものの価値を、自らが既に抱いている価値観とは無関係に判断した時、ある種の「矛盾」が生じてしまう。レーニンの『熱情ソナタ』への言及は、彼の「価値観」に基づいた時は「批判」となるが、彼の「感性」に基づいた時は「愛着」へと変わる。

自己の考えの中に「矛盾」をはらまない人間はおそらく存在しない。もし、自らが「矛盾のない人間」だと思うのであれば、その人はおそらく深く考えたことがない人間だろう。

長く私は「消費社会」というものに懐疑の念と嫌悪的な感情を抱いてきたし、今なおこの懐疑の念と嫌悪的な感情を抱き続けている。しかし、「消費社会」というもの、あるいは「消費」という人間の活動を絶対的に否定するのであれば、今自分が存在している時代と世界から退場する、すなわち死ななければならないのではないかと考えるに至った。

私が死ぬことで悲しむ人がどれだけいるかはわからないし、あるいはそんな人は存在しないのかもしれない。しかし「自殺」ということを少し実感を持って考える時、そこにただただ「恐怖感」を覚えるのである。それは消極的であっても、「死」を選ぶよりはこの世に留まりたいということなのである。つまり、現在自分が生きている時代と世界がどれほど嫌いなものであっても、自らが「死」というものに「恐怖感」を抱いている以上は、その時代と世界を受け入れなくてはならないということなのだろう。

とすれば、懐疑の念と嫌悪感を抱く「消費社会」というもの、「消費」という活動についてもある程度受け入れなければならないのだと思う。実際問題、生まれてから現在に至るまで、朝起きてから夜眠りにつくまでに消費と無関係であった1日などなかったであろう。少なくとも現代の「文明社会」において生きてゆくためには、「消費」なくして自らの生存はありえないのである。

私は自分自身が生きてゆく中で、できるだけ様々な物事を考えて生きてゆきたいと思う。その中で様々な人間に会い、様々な知識を吸収し、それらをうまく組み合わせることで自分なりに何か新しい物事を創り出したい。しかし、この活動とて「消費」というものと切り離して考えることは不可能なのである。

例えば様々な人と会うためには、現実の空間、仮想の空間を問わず、何らかの財・サービスの「消費」を経由しなくては、より多くの人に合うことは不可能である。車で会いにゆくためには車という財が必要であるし、電車で会いにゆくのであれば鉄道という運輸サービスを消費しなくてはならない。

知識を吸収するために様々な本や新聞を読むのであれば、本や新聞という財を「消費」しなければならない。(もちろん公共図書館のサービスを利用するのであれば、必ずしも知識を得るために「消費」しなければならないわけではないが)。

新しい物事を創り出す場合においても、やはり「消費」が不可欠となる。たとえば、私はこのアメブロを通じて、「私なり」に新しい物事を創り出しているつもりだ。しかしこのアメブロのサービスが多くの広告、そしてそれは必ずしも私が必要であるとは思わない財・サービスの広告によって支えられているという点は見逃せない。私自身の創作活動が「消費」と直結しないとしても、その活動は様々な「消費」を促す広告によって、「無償」で支えられている。

こう考えてみると、私の存在も活動も「消費社会」と「消費」によって暗黙の内に支えられているのである。皮肉にも、「消費社会」や「消費」を批判する活動を行うとしても、「消費社会」と「消費」によって支えられているのである。これを端的に言い表すとすれば、"Consumat ergo sum"(我消費する、ゆえに我あり)ということになるだろう。

では、「消費社会」と「消費」を受け入れるとして、どう生きてゆくのが望ましいのだろうか?それは自分の消費する財・サービスについて価値観をもって「吟味をする」ということなのだと思う。もちろん、ひとつひとつの財・サービスを消費する際に「吟味をする」ということは不可能であろう。しかし、たまにこの「吟味をする」ということを意識するだけで、無意識のうちに「消費している」、あるいは「消費させられている」という状況は避けられるのではないだろうか?

また、実際に消費した財・サービスから自分なりの「価値」を見出す、あるいは「価値」を生み出すということも大切であろう。例えば、人と会うために鉄道というサービスを消費したのであれば、その出会いを自分にとってより意味のあるものにする。本という財を消費したのであれば、自分の人生に少しでも生かせるようにする。この考えも消費する財・サービスの全てに当てはめることは不可能であるから、たまに意識するという程度でよいだろう。

「絶対性」とか「完全性」といったものに囚われることなく、自らが消費した財・サービスに「自分なり」に「価値」を見出す、あるいは「自分なり」の「価値」を付与するということを実現できれば、それは少なくとも無意識に消費しているわけでも、消費をさせられているわけでもなくなるのだと思う。「自分なり」に意味づけができる「消費」であれば、それは少なくとも自分自身を「豊か」にすることにはつながる。そういう生き方ができれば、きっと悪くはない。