先日友人から面白い話を聞いた。彼がある日いつもどおり仕事から帰ると、新婚の奥様がスイーツを準備してくれていた。何の記念日でもないはずなのに一体どうしたのだろうと疑問に思っていると、奥様から「今日はあなたが生まれてからちょうど1万日目なの」と言われたそうである。

誕生日であれば1年のうちの決まった1日であるから忘れることはない。万が一忘れてしまっても、後の年である種の「やり直し」がきくものである。しかし、件の友人の「生誕1万日記念日」というのは、しっかりと計算されていなければ祝いようがないし、「その日」を逃せば二度とはやって来ない。そういう意味で考えると、彼の奥様の彼への深い愛情を感じるのである。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

恋人同士の間では、サラダの味をほめられたというだけで記念日になるものであることを俵万智の短歌は如実に物語っている。お互いの誕生日、初めて出会った日、付き合い始めた日、プロポーズの日、結婚記念日と、とにかく色々な「記念日」がある。これらの「記念日」の意味は、お互いの思い出の共有や絆の強化へとつながっているはずだ。

個人個人の「記念日」同様、国民国家における「記念日」も「国民」の思い出、すなわち「歴史」の共有であり、「国民」の絆、すなわち「国民意識」の強化を目的としている。大型連休というものを単なる「休日の連鎖」と捉えるのではなく、日本という「国民国家」の「記念日」の連鎖という観点できまじめに考えてみると、この期間には「国民国家」による「歴史」を考え、「国民意識」を呼び覚まされるのである。

もちろん我々一般の国民が連休の1日1日についてきまじめに考えるということは稀であろう。しかし、国会議員のように公職にある者はその1日1日についてきまじめに考えさせられているようである。今年の場合は、祝日とはなっていないが、4月28日にいわゆる「主権回復の日」が設定され、29日に「昭和の日」、5月1日に「メーデー」、3日に「憲法記念日」、4日に「みどりの日」、5日に「こどもの日」といった具合であり、それぞれの記念日に様々な「式典」が催された。

4月28日のいわゆる「主権回復の日」式典が開催されたことに対して、沖縄県や小笠原諸島といった1952年4月28日に主権が回復されなかった地域の一部住民からは批判の声が上がった。また、日本共産党は「対米従属を認めることになる」として式典開催に反対した。これらの事実は、「記念日」に対する国民的コンセンサスがとれていないということを示している。

沖縄県や小笠原諸島が等しく日本という主権国家、国民国家を構成する以上、「主権回復の日」として位置づけることにはやや抵抗がある。そして、北方領土、竹島にいたっては未だに主権が回復されていないことを考えると、先の大戦によって我が国が失った主権は未だに全て回復しているわけではないという点はもっと意識されるべきであろう。

周知の通り沖縄は先の大戦において大規模な陸上戦が展開され、その中で民間人も多数犠牲となった。沖縄戦を指揮した大田実海軍中将(沖縄根拠地隊司令官)は海軍次官宛の最後の電文で次のように打電した。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と。やや感傷的かもしれないが、沖縄を主権国家・国民国家から除外するかのような態度をとることは、大田中将の言う「後世特別ノ御高配」にあたるだろうか?

もし4月28日を「主権回復の日」として祝うのであれば、当時主権回復をできなかった沖縄県と小笠原諸島の住民、あるいは今なお主権回復を果たせていない北方領土と竹島の元住民に対する一定の「配慮」があってしかるべきだろう。

先述した通り、「国民国家」における「記念日」は、「歴史」の共有と「国民意識」の強化のためにこそ存在する。「記念日」の存在が「国民」を分断してしまうのであれば、それは「記念日」の本来の目的に適っているとは言えない。