Calamus gladio fortior.(ペンは剣よりも強し)

以前読んだ筒井康隆の『アホの壁』で紹介されていたが、多くの人は「ペンは剣よりも強し」という言葉を「言論の自由」のための言葉と曲解してしまっているのだという。筒井によると、この言葉を言ったとされるのはフランスの宰相にして枢機卿アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリュー(1585~1642)である。

Qu'on me donne six lignes écrites de la main du plus honnête homme, j'y trouverai de quoi le faire pendre.(最も正直な男が書いた6行の文章が手渡されたとしよう。私はその中から彼を縛り首にするだけの理由を見つけることができるだろう)。

リシュリューがこのような言葉も残していることを考えると、この言葉が「言論の自由」を保障しているとは考えがたい。少なくともリシュリューの意図した「ペンは剣より強し」という言葉の本来の「意味」は、「権力の下ではペンは剣よりも強い」といったところではないだろうか?事実、リシュリューのような権力者にとってはたった6行の文章を書いただけでも縛り首にされるだけの理由をこじつけられることもあるのだから。

「言葉」というのは「自由」なものであると同時に「不自由」なものでもある。あるひとつの「言葉」が万人にとって同じ意味になるとは限らないし、それぞれの「言葉」に対して、個人が持っているイメージや経験、知識、価値観というものは異なる。それゆえに、短い「言葉」で多くを言い表すためには、書き手と読み手がイメージや経験、知識、価値観といったものを数多く持っている必要があるのではないだろうか?逆に言うと、書き手と読み手が持っているイメージや経験、知識、価値観といったものが極端に偏ったものであると、ある「言葉」を理解する可能性が失われるということにはならないだろうか?

例えば「海」という言葉を発した時、「海」に関するイメージや経験、知識、価値観が豊富な人は様々なタイプの「海」を連想できる。エメラルドグリーンの海や青々とした海、穏やかな海、荒れた海、渦潮、深海といった、「海」にまつわる様々な事象を連想できるだろう。同様に具体的、抽象的を問わず様々な「言葉」の「認識」と「理解」にあたっては、個人のイメージや経験、知識、価値観というものによって、「意味」が異なってくる。

現在自分が書いているこの文章を含めて、自分の発している「言葉」というものが、自分が意図しているように相手に受け止められているかはわからない。私と全く同じイメージ、経験、知識、価値観を持った人は全くいないと考えると、私の「意図」と読み手の「認識」と「理解」が完全に一致することは絶対にありえないのだろう。

もちろん自分の「意図」と相手の「認識」と「理解」が完全に一致するわけがないことは理解しているし、正反対の意見に耳を傾けることで新しい考え方を身につけることができることも十分理解している。しかし、自分と相手の間にイメージや経験、知識、価値観の差があまりにも大きい場合、自分の発する「言葉」が本来の「意図」とは正反対に受け取られたり、相手を傷つけたり「不快感」を与えてしまったりするという事態も起こる。そういう意味では、「ペンは剣よりも強し」(ただしリシュリュー的意味ではない)なのである。

これを極度に意識するようになると、文章を書くことや「言葉」を発することというのは極めて難しくなり、極論をしてしまうと「言葉」を発すること自体に抵抗感を覚えるに至ってしまう。リシュリューの言葉に喩えるのであれば、常に「縛り首」になる恐怖を持ち続けなければならない。

「権力」や「権威」というものは往々にして「言葉」を規定するものである。法律や規則というものは個々の用語の厳格な定義を必要とするし、広告はそこで発せられる「言葉」にあるイメージや価値観を刷り込むし、学界や論壇においては「権威」とされる人達によってある「事象」に対する「評価」が彼らの価値観によって形成される。それらの全てが悪しきものであるとは思わないが、過剰な「言葉の規定」がもたらすものは「言葉」の「自由さ」を損ない、「不自由さ」を強化することではないだろうか。