村上春樹に初めて触れたのは意外と最近で、2008年にJ.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳を初めて読んだことに始まる。彼自身の作品を初めて読んだのは2009年の『1Q84』である。『1Q84』も村上春樹の作品だからというよりは、G.オーウェルの『1984年』に着想を得ているということが読書動機であった。

ここ1~2年で付き合うようになった友人たちが軒並み村上春樹のファンであることから、「なぜ村上春樹がそんなに支持されるのか?」という点に興味を持つようになった。そんな折、今春『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』が刊行され、ちょうど良い機会なのでこの本を皮切りに、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみることにした。(なお、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』についてのレビューはこちらから参照されたい)。

翻訳作品である『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を含め、これまでに読んだエッセイ以外の作品にほぼ共通して私が覚えた読後感は、「心の奥底にある闇」という一言に尽きる。それぞれの主人公はどこか憂鬱を抱え、神経質で、「社会」とは一定の距離感を持つ、あるいは距離感を持つようになる。「明るい」か「暗い」かの二元論で論じてしまうのであれば、間違いなく「暗い」方に分類されるだろう。ある友人から、「気分が落ち込んでいる時に村上春樹を読むのはおすすめしない」と言われたが、これは的を射た寸評であると思う。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)/新潮社

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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は「世界の終り」の世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界が交互に語られてゆく。2つの世界は並行して進んでいるのではなく、「ハードボイルド・ワンダーランド」の結末で「私」が施された「シャフリング」の完了後に「世界の終り」の世界が始まると考えて良いだろう。そういう意味では、章立てに従って「ハードボイルド・ワンダーランド」→「世界の終り」→「ハードボイルド・ワンダーランド」の順番ではなく、「ハードボイルド・ワンダーランド」を全て読み終えてから「世界の終り」を読むという読み方もあるはずである。

私は今回章立ての通りに読み進めたのだが、この読み方であれば「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」を少しずつつないで読むということが可能だろう。「世界の終り」は「ハードボイルド・ワンダーランド」よりも比較的「単純化」された世界なのであるが、その「単純化」された世界を構成するひとつひとつの物事が、「ハードボイルド・ワンダーランド」において「私」が意識的あるいは無意識的に強く影響を受けている物事であることが読み取れる。

つまり「世界の終り」の世界は、「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」が持ち合わせている物事によって構成されていると考えることができる。このあたりから私は「世界の終り」というのは「小説」の「比喩」であり、その「世界」(すなわち「小説」)の根底や本質といったものは、それを「創る」もの(すなわち著者)によって規定されると考えた。

「世界の終り」では「心を持たない」ことがその生存条件とされる。逆に言うと、「心を持つ」ことを切望する人間は「世界の終り」の世界から出なくてはならない。(「不完全な心」である場合は、「街」に入ることができない)。これは「小説」において、その登場人物は「著者」によって設定された通りにしか生きることができないという点の「比喩」であろう。

私なりの読み方では、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品は村上春樹自身の「比喩的な自伝」であり、「世界の終り」の世界は非常に単純化されているとはいえ、村上なりのひとつの「世界像」の提示であったのだと思う。村上自身が、自らの物理的体験や知的体験、心理的体験、価値観、嗜好(それは酒や音楽の趣味から性的嗜好まで含む)を「シャッフル」することで現実に生きる世界とは少し異なった、彼なりの「世界象」を「小説」によって表現、実現してゆくことを宣言することとなったのが本書なのではないだろうか。

事実、この後に読んだ『ねじまき鳥クロニクル』やこの前に読んだ『1Q84』(両方とも本書の後に刊行)では、この「シャッフル」と言うべき表現が随所に見られる。『ねじまき鳥クロニクル』については後日改めて触れるとして、『1Q84』を読んだ際の読書録にはただ一言「オマージュのコングロマリット」という寸評がなされている。つまり、既に起こった事件や事象の「複合体」のようにしか当時は読み取れなかったのである。しかしこの「複合体」へと再構成し、そこにメッセージ性を持たせることこそ、村上春樹の目的なのではないかと考えるようになった。

村上春樹のファンはよく「彼の世界観が好き」ということを口にするが、村上が伝えたい「世界観」は様々な物事が「シャッフル」され、精巧な「比喩」によって成り立っていることから、その「シャッフル」と「比喩」以前の状態を理解することなしに彼の「世界観」を理解することは不可能なのかもしれない。

結局のところ、我々読者は村上春樹自身の物理的体験や知的体験、心理的体験、価値観、嗜好を共有しているわけではないし、村上春樹もまた我々読者の物理的体験や知的体験、心理的体験、価値観、嗜好を共有しているわけではない。それゆえに、村上春樹の作品を彼が伝えたいように我々読者が理解することは不可能だろう。同時に、村上春樹も我々読者が理解するように伝えることも不可能だろう。我々読者はこの点を理解した上で作品を読む必要がある。本書はそんなことを考えさせた一冊であった。

なお、「世界の終り」(The End of the World)というタイトルを見て真っ先に思い出したのはアメリカの政治学者であるフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man)である。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が1985年刊行、『歴史の終わり』が1992年刊行であり、『歴史の終わり』が政治思想の書籍であることを考えると両者に関連性はないであろう。しかしながら、「世界の終り」の世界を丹念に読んで行くと、そこに『歴史の終わり』に通ずるものを私は感じたのだが、おそらくそれは考え過ぎなのかもしれない。