先日の海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船の衝突事故直後、ある「保守」を自称する人は自衛隊を擁護し釣り船側を非難する発言をし、自衛隊嫌いの人は輸送艦を非難する発言をするという現象が見られた。前者は海上自衛隊側の発表を全て正しいと思い込み、海上自衛隊側に非はないとする立場であり、後者は海上自衛隊側の発表を徹底的に疑い、海上自衛隊の側にこそ非があるとする立場であると私は認識した。

事故原因について今なお海上保安庁が調査中であることを考えると、両者の主張は現在のところどちらが正しいとは言えない。両者の主張は、客観的な「事実」に基づいているというよりも主観的な「思い込み」に基づいていると考えた方がよいだろう。客観的な「事実」に基づくことなく、主観的な「思い込み」に基づいて自説を展開する両者の姿を見ていて、「両方とも実に反知性主義的だな」というのが私の抱いた率直な感想であった。

「反知性主義」という言葉の定義は慎重に行われるべきものと考えるが、ここでは暫定的に次のように定義をしておきたい。すなわち、「ある事象に対する主体的な「思考」の欠如あるいは放棄、既存の価値観に対する「思考」なき盲従」である。

また、「反知性主義」をめぐっては、「支配・被支配」の軸と「体制・反体制」の軸が存在すると考える。前者は、「盲従させる」側か「盲従する」側かであり、これは「指導的」であるか「被指導的」であるかと言い換えてもよいだろう。後者は、「権力と権威は常に正しい」と考えるか、「権力と権威は常に間違っている」と考えるかである。

「支配的・体制的反知性主義」とは、政治家や官僚、宗教団体などが、その権力や権威に基づいて大衆に政策やイデオロギー、価値観を提示し、「思考」させることなく盲従させることである。大衆が盲従を拒む場合、権力機構や権威機構によっては「力」の行使をも厭わない。(全体主義国家における秘密警察、中世ヨーロッパにおける異端審問はこれにあたる)。

「被支配的・体制的反知性主義」とは、政治家や官僚、宗教団体などが、その権力や権威に基づいて提示した政策やイデオロギー、価値観を大衆の側が主体的に「思考」することなく盲従することである。「権力と権威は常に正しい」と思いこむことで、「思考」のプロセスが欠如、あるいは放棄される。

「支配的・反体制的反知性主義」とは、大衆に対して「既存の権力と権威は否定されるべきもの」と煽動し、既存の権力機構や権威機構に対抗する政策やイデオロギー、価値観を提示し、「思考」させることなく盲従させることである。 (当初反体制運動として始まった毛沢東による文化大革命はこれにあたる)。

「被支配的・反体制的反知性主義」とは、反体制運動体によって提示された反権力的・反権威的な政策やイデオロギー、価値観を大衆の側が主体的に「思考」することなく盲従することである。

最近インターネット上に流れている様々な主張を読む中で感じるのは、冒頭の事例のように左右の別なく実に「反知性主義」的と思える意見が増えたということである。ある事象と真摯に向き合い、「思考」のプロセスを経て主体的な「考え」を構築するという姿勢が欠如してしまっている。

自らと異なる、あるいは対立する立場の人間の意見に耳を傾けず、また根拠をもって批判するということをせず、ただ「バカ」と罵ることで自らの意見を表明した気になっていたり、権威あるものの言説を自分なりに咀嚼することなくただ引用することで理解した気になっていたりということが常態化してしまっている。

「思考」を諦めること、あるいは放棄することがすなわち「悪」であるとは考えない。何らかの結論を出すにあたって時間的な制約がある場合がほとんどであるし、「思考」をし続けることによって精神的、物理的に異常をきたしてしまうこともある。時間的、精神的、物理的などの制約によってある時点で「思考」を諦めること、あるいは放棄することはやむを得ないことである。

人によって時間の長短、質の高低、量の多寡はあるものの、主体的な「思考」のプロセスを経たうえでの「思考」の諦観、放棄は「知的」なもの(私はこれを「知的諦観」と呼びたい)であり、これは何ら非難されるべきものではないと考える。

しかしながら、そもそも主体的な「思考」のプロセスを全く経ることなく「思考」を諦める、あるいは放棄することは「無知的」なもの(私はこれを「無知的諦観」と呼びたい)であると考える。私の考える「反知性主義」は、この「無知的諦観」によって構成されている。

TwitterやFacebookといったSNSツールを通じて他人の意見をリツイートしたりシェアしたりということが一般的になったが、リツイートやシェアの際に何らかの主体的な「思考」をともなわないのであれば、それは「反知性主義」的なものであると思う。もちろんリツイートやシェアの際にコメントをつけないことが「思考」をともなっていないということにはならない。(何らかの意見がありつつも、あえてコメントを書かないという人は多数存在する)。

SNSツールの普及は個人が気軽に意見を表明する場を提供したと同時に、「反知性主義」をも普及させることとなった。より多くの情報にアクセスできることは、その情報を元とした議論を活発化させ、多様な意見を生み出したと同時に、特定の価値観や意見に対する盲信と盲従をも生み出した。

自らの意見を発信する際、それが既存の価値観や意見に対する盲信や盲従ではなく、自らの主体的な「思考」に基づくものか、その意見が自分の言葉によって組み立てられたものか、我々は自らの意見を発する時に今一度それらのことについて確認する必要がある。