「資料が少ないということがすなわち論文を書けないという理由にはなりません。少ない資料からいかに秀逸な論文を書くかというのも大切な能力です」。大学院に進学したばかりのころだったと思うが、恩師の村田晃嗣先生(現・同志社大学学長)にこんなことを言われたことがあった。限られた情報や知識を駆使し、想像力と創造力を働かせて、いかに多くのことを言い表し、相手を説得するかが重要ということを仰いたかったのだと思う。

大学入学以来、様々な人や本と出会うことを通じて実に多くのことを学ばせてもらったと思っている。まだまだ勉強が足りないと思うし、人生というのは死ぬまで勉強なのだと思うけど、勉強ばかり続けていても何かを「形」にする、つまり新しいものを「創造」したり、自分自身の考えを「表現」することにはつながらない。既存の「知識」を得ることは一つの「力」ではあると思うし、これからも既存の知識を得る努力は惜しみたくない。だが、今後は既に得た知識と知識を組み合わせたり、既に得た知識を大胆に破壊することで、たとえ小さなものであっても自ら新しい知識を創り出すという生き方にシフトしたい。

ここ数年間多くの勉強会に参加する中で、私はとにかくたくさん話してきた気がする。でもそこで話したことのほとんどは、おそらくこれまでに自分が勉強してきた中で得てきた「知識」に過ぎず、オリジナリティをもって何かを話せてきたとは思っていない。自分よりもたくさんの本を読んでいる人にとっては「そんなの知ってるよ」というレベルだったと思うし、自分よりもたくさんのことを考えることができる人にとっては「それは君の言葉でも考えでもない」と心底から軽蔑されていたと思う。

先だって「反知性主義」について考えていた際に、実は自分自身の「知識収集」とでも表現すべき態度もまた「反知性主義」なのではないかと気付いた。既存の知識を数多く収集し、それを多用することは「思考をするふり」でしかない。「思考」というものは、全く新しい知識を創造する、あるいは既存の知識と知識を組み合わせることで新しい知識を創造することであろう。

全く新しい知識を創り出すということは非常に難しい。自分自身で「新しい知識を創り出した!」と思っていても、客観的に検証すると実は既存の知識であったということは少なくない。多くの人間にとっては全く新しい知識を創り出すことはできず、せいぜい既存の知識と知識を組み合わせることで自分自身にとって比較的新しい知識を創造することに留まるだろう。(自分自身にとって「新しい」と思うことが、他の人にとっても「新しい」とは限らない)。

新しい知識を創り出し、それが価値をもったものとなるのはその知識が他の人や物事に影響を与え、何らかの変化をもたらした時であろう。逆に言うと、他の人や物事に影響を与えることも、変化をもたらすこともなければ、その知識は価値を持たないということになる。学問であれ、仕事であれ、何がしかの価値を持った新しい知識を創り出すということは自分のような凡人にとっては、一生のうちにおそらくはわずかであろう。

これまでのようにただ単に知識を収集するだけではなく、新しい知識を創り出し、それに価値を持たせるのには一体どうすべきか?自分自身が創り出せる新しい知識とは一体何だろうか?自問自答は果てしなく続くのだけれども、小さくて知識を少しずつでも創り出していかなければならないそういう次元に来ているような気がする…。