少し時間が経ってしまったが昨年末に岩波ホールで観た映画『ハンナ・アーレント』について書いておく。ハンナ・アーレントについて、日本人がこれほど関心があったのかと思ってしまうくらい結果的には話題作となった。岩波ホールでは10年ぶりに初日から連続2日間満員であり、連日上映前の行列が絶えなかったとのことである。

本作品では、ユダヤ人であるハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、『ニューヨーカー』誌に『イエルサレムのアイヒマン』を寄稿するまでの葛藤と寄稿後のユダヤ人コミュニティとの軋轢について描かれている。

鑑賞直後の感想は、ジョージ・クルーニーの監督作品『グッドナイト&グッドラック』に似たものであり、そのテーマは「反・反知性主義」と「主体的な思考の重要性」であると考えた。アーレントはアイヒマン裁判に際して、そもそもアイヒマン逮捕がアルゼンチンの主権を侵すものであり、イスラエルによる裁判は「不遡及の原則」に反するものと考えた。また、アイヒマンを単純に命令に従った役人に過ぎず、それを「悪の凡庸さ」と表現した。

多くの同胞同様、アーレント自身がナチスに迫害されたユダヤ人であることを考えると、彼女もまたアイヒマンを「絶対悪」と規定する動機があったと言える。しかしながら、彼女は徹頭徹尾客観的事実を直視し、主体的な思考を行うことで、ユダヤ人コミュニティの「願望」とは異なる結論を導き出す。この「願望」とは異なる結論から、彼女は自身の友人を含めたユダヤ人コミュニティから強く非難されるのだが、大切なものを失ってでも主体的な思考をやめないという点に彼女の哲学者としての矜持を感じた。

『イエルサレムのアイヒマン』においてアーレントが批判したかったのは、ナチスそのものだけではなく、それに従って思考を停止した普通のドイツ国民であろう。そして皮肉なことに、そのナチスと思考停止した普通のドイツ国民に類似するものが、アイヒマンを逮捕し裁いたイスラエルであり、アイヒマンを「絶対悪」と規定し、死刑を望むユダヤ人であった。彼らもまたアーレントの批判の対象となっていたのではないだろうか?

アーレントにとってファシズムとは、ドイツに特有のものではなく、広く人類(そこにはユダヤ人も含まれる)に蔓延する可能性のある思想なのである。そしてそれは主体的な思考を失った人間であれば誰もが罹患するものなのである。

アーレントの著作『人間の条件』を読む時、私はいつもピーター・ドラッカーの『経済人の終わり』とエーリヒ・フロムの『希望の革命』を思い出す。アーレント、ドラッカー、フロムはいずれもユダヤ系知識人であり、ナチスの迫害を逃れてアメリカにわたり、それぞれの角度からファシズムを分析した著作を残し、いずれも「主体的な思考の重要性」を説いている。

同胞のみならず自分自身も迫害された経験を持ちながら、「結論ありき」ではなく客観的にファシズムという社会現象を冷静に分析したことは後世の我々に重要な示唆を与えている。とりわけ「反知性主義」的な風潮が強まる中で、彼らが改めて注目を浴びることは民主主義国家において望ましいことかもしれない。