私はこれまで「多くの「知識」を持ち合わせることはそれだけ人間の思考を深め、人間を幸せにする」と思いこんできた。しかしながら、実際には多くの「知識」を持ち合わせることは、人間の思考を深めることもあれば浅くしてしまうこともあるし、人間を幸せにすることもあれば不幸にすることもあると考えるようになった。

ある現象をバランス感覚をもって見るための糧となるのであれば、より多くの「知識」を収集することに意味はある。しかしながら、ある現象を見る際に足かせとなってしまうのであれば「知識」を収集することに意味はないし、害悪とすらなりうる。数多くの「知識」を持ち合わせることは、その「知識」に基づいてある現象に対して様々な見方ができる一方で、それらの「知識」に拘束をされてしまう恐れもある。もしある「知識」に拘束をされてしか現象を考えることができないのであれば、それは特定の「知識」に盲従することを意味し、「反知性主義」に通じ、「思考の自由」を失ってしまう。

ある特定の「知識」に強く影響を受けると、その影響を受けた「知識」に強く傾倒してしまう。その「知識への傾倒」は時として、「盲従」へとつながり、やがて「思考の自由」を失ってしまうことがある。

大学時代私が学んでいたのは国際政治であった。大学1年生の冬に読んだヘンリー・キッシンジャーの『外交』に強い影響を受けたこともあり、「リアリズム」と分類される国際政治理論に関心を抱いた。キッシンジャーの『外交』を機に、私はパワー・ポリティクスに基づく外交観を持つことになり、かなり長い間「リアリズム」に基づく外交観を持ち続けていたと思う。もしかすると、今なお暗黙のうちに持ち続けているかもしれない。

当然のことながら、外交や国際政治というものはパワー・ポリティクスのみによって成り立っているわけではない。しかしながら、一度「リアリズム」という理論に傾倒してしまうと「リアリズム」という見方から抜け出すことは難しい。「リアリズム」の対極に「リベラリズム」という考え方があることを理解しつつも、外交や国際政治を考える上で「初めにリアリズムありき」で考える癖はなかなか抜けなかったし、現在もなお抜けていないだろう。このことは外交や国際政治というものをより多様な角度で考えることの障害となってしまっている。

ここ数年間で経済学や経営学といった政治学以外の本を読み、議論する機会に数多く恵まれた。その中で気付いたことは、「自分は~の立場なので…と考える」という人に少なからず出会ったことである。「自分はリバタリアンの立場なので…と考える」、「自分はケインジアンの立場なので…と考える」、「自分は新自由主義の立場なので…と考える」といった具合である。

その人がどのような思想的立場にあるかはその人の思想信条の自由であるので大した問題ではない。ただ、「自分は~いう立場なので…と考える」という発言方法に若干の違和感を覚えた。そもそも「~という立場なので…と考える」という因果関係がおかしいのである。本来的には、「…と考えるから~という立場に分類される」という因果関係になるはずではないだろうか?「~という立場なので…と考える」という場合、「思考」というプロセスが欠けていることにはならないだろうか?

また、「○○モデルというものを考えると、××になるはずである」というような発言を耳にしたこともあった。これもおかしなことである。「○○モデル」というものはそもそも「××」という客観的事実があったために導き出されたものであるが、前提条件が全く同じでなければ「××」になるとは限らない。自然科学であれば再現可能であろうが、経済学や経営学といった人間の要素が無視できないものにおいては「××」になる可能性が否定されることもある。

思想的立場や理論、モデルというものが存在して現象が確立するのではなく、現象が存在して思想的立場や理論、モデルが確立するということを忘れがちである。大学時代の私もそうであったが、既に確立したある思想的立場や理論、モデルといった「知識」を手にするとそれを使って考えたくなるものである。自分が新しく得た「知識」を深く理解するためにこれを援用することは悪いことではないだろう。しかしながら、それを多用しすぎたり、それに縛られてしまうことは「思考の自由」を失い、新たな「知識」を得る機会を失い、これまで存在しなかった全く新しい「知識」を創造する機会をも奪ってしまう。

職業的な学者の場合、自らの「思考」を深め、新しい「知識」を創り出すことが求められる。この場合、ある特定の「思考」や「価値観」に縛られてしまう感は否めず、自らが創り出す新しい「知識」に対する批判を論理的に退けるか、批判を受け入れたうえでより高次の「知識」に結実させる必要がある。それはとてつもなく困難な行為であると思う。自由民主主義国家において職業的な学者は、一見「学問の自由」が保障されているようで、自らの創造した「知識」に対して大きな責任を有することから実は「不自由」な存在なのではないかとすら思う。

しかしながら、我々のような庶民はある特定の「思考」や「価値観」に縛られて特定の「知識」を信仰しなければならないわけでも、殉じなければならないわけでもない。特定の思想的立場や理論、モデルに「帰依」してしまうことは自らこの「自由」を放棄することに等しい。学者以上に「自由」が担保されていることを考えるとそれは非常に残念なことである。

では、「思考の自由」を確保するためにはどうすればよいのだろうか?私が暫定的に行き着いた考えは次の通りである。それは、常に人間を「不完全な存在」として認識し、自らの「思考」や「知識」を絶対的なものと考えないことである。常に反論の余地を含み、それゆえに自らの「思考」と「知識」は将来変更されうると認識することである。そのうえで、ある現象や客観的事実から「思考」し、自分なりの「理解」を構築することが重要である。

もっとも自分なりの「理解」を構築し、「知識」を創造したとしても、それが他者に「理解」され、広く普及をしなければ価値を持たない。この他者の「理解」、言い換えれば「相互理解」の過程で自分が伝えたい相手に自分が伝えたいように伝わるとは限らない。相手に精確に伝えるためには自らの「伝える力」と同時に相手の「理解力」も必要とする。「伝える力」は自らの努力でいかようにでもなるが、相手の「理解力」は自らの努力ではどうにもならない。

私の認識では、現在の社会の大部分は一見「思考」をしているようでいて、既存の「知識」に大きく依存することで「思考のふり」をしているように思える。それゆえ、「相互理解」も「擬似的」なものに見える。個人個人が現象をしっかりと見て、主体的な思考を行わなければ、やがて大きな「危機」を迎えるのではないだろうか?いや、既に「危機」を迎えつつあるのかもしれない。