ダイヤモンドオンラインにおいて鈴木寛前参議院議員(元文部科学副大臣)が入試改革について触れていた。この記事において鈴木は、私大文系入試にみられる「知識偏重型」の入試を批判した上で、国立大学や慶應義塾大学の入試にみられる「論理的思考型」の入試を擁護し、「受験勉強」というものを限定的に擁護している。

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小学校から中学、高校、大学に至るまでの入学試験、定期試験、就職活動、各種資格試験というものを考えた時、「試験対策」が存在しない試験を探す方が困難だろう。試験というものを経験したことのある人間であれば、ほぼ間違いなく「試験対策」というものも経験したことがあるはずである。この「試験対策」とは、「いかにして高得点を獲得するか」あるいは「いかにして合格するか」であり、高得点と合格のためのパターンを身に付けることに他ならない。そこで求められる能力は基本的には記憶力であり、これをもとに制限時間内に迅速に解答を復元する能力と問題を処理する能力であると思う。

「知識偏重型」の試験では単発の知識を解答すればよいという、いわば「単純な記憶力」が重視される。高得点を獲得するためにはより多くの知識を記憶し、その知識を制限時間内に迅速に引き出せれば良いだけのことである。そこでは「論理的」であることも「思考」をすることも求められない。鈴木の、「固有名詞などの情報を拾って何が掲載されているかは分かるが、文面の背景にあるキーメッセージやコンテクストを読み取れない」という指摘はまさに言い得たものである。

鈴木は一方で国立大学や慶應義塾大学の入試にみられる数学や小論文を重視した「論理的思考型」の入試を称賛している。しかしながら、「論理的思考型」の試験もまた解法パターンや文章の書き方といったパターンを身に付けることで対応できるものであり、複数の知識を組み合わせた記憶力を求められているに過ぎないと私は考える。結局のところ、「このように解けばよい」とか「このように書けばよい」という、より多くの「成功体験」を収集すればよいだけのことであり、それはパッケージ化された知識を身に付けることに他ならない。「論理的思考型」の試験では、パッケージ化された知識を解答すればよいという、いわば「複雑な記憶力」が重視される。

では、記憶力とそれに基づく解答復元能力と問題解決能力を問う試験が重視されるのはなぜだろうか?それは、この種の試験がより効率的で客観的であることに起因するというのが私の考えである。戦後、人口が増加し教育が普及する過程で、より効率的かつ客観的に教育効果を評価するために着目されたのがこの3つの能力だったのではないだろうか。教育において試験というものが当たり前になることで、この3つの能力だけで評価することが常態化した。

しかしながら、試験というものは本来教育における一つの「点」でしかない。とすれば、鈴木の主張する「論理的思考型」の入試への改革を行ったとしても教育が大きく変わるとは思えない。教育の効率化、客観化の流れの中で重視されなくなった様々な能力を開発し、評価できる仕組が確立されなければ教育が大きく変わることはないのではないだろうか?

ではどのような能力を開発し、どのようは評価制度を確立すべきなのだろうか?大変無責任なことに私はそれに対する明確な解を現時点では持ち合わせていない。残念ながら現時点でこの問題については問題提起に留めておきたい。